走り続けた16年(18)

世界平和への思い①

今年も梅雨が開け、暑い夏が来ました。

8月は広島、長崎に原爆が投下され、さらに第二次世界大戦終戦の月でもあります。当時を思い返し平和について考える8月でありたいと思います。

その大戦で焦土と化した日本が、平和で繁栄した今日の社会を築くことができたのは、日本人の勤勉さと国際環境に恵まれたことによるものと思います。

また、この繁栄はあの戦争で犠牲になられた英霊の下にあることも、決して忘れてはならないことです。

戦後71年、国民の圧倒的多数は「戦争を知らない世代」になりました。あの戦争の惨禍を経験した人も少なくなり、すでに遠い記憶の彼方の出来事として忘れ去られようとしています。

あれだけの犠牲を払った戦争の悲惨さを風化させてはなりません。そのためには戦争について考え、伝えていく必要があります。

市でも、小金井市非核平和都市宣言の趣旨に則った平和事業が、市報などにも掲載されています。是非、参加してください。そして、家庭や学校でも、また、地域においても戦争の悲惨さや平和の尊さについて話す機会を設けてください。

本年5月、広島、長崎に原爆を投下したアメリカのオバマ大統領が、被爆地広島を訪問したことは、歴史的にも非常に意義深いものであり、高く評価されるものです。大統領の任期は残り少なくなりましたが、あのプラハ宣言「核なき世界」の実現に向けて、これからも活躍されることを期待したいものです。

平和の世紀と期待された21世紀も、すでに16年が経ちましたが、シリアの内戦は治まる気配もなく、過激組織「イスラム国」によるテロ事件も頻発、世界各国で自爆テロや無差別大規模殺人事件等が発生し、誰もがこのような災害と無縁ではいられない状況です。

爆撃により破壊された瓦礫の中、また、難民キャンプ等で子ども達が学校にも行けず、不安で不自由な日々をおくっていることを考えると、長期独裁政権を倒したあの「アラブの春」を喜んだのは何だったのか悩みます。

日本を取り巻く環境も、決して安穏としていられる状況ではなく、国も都も治安対策にも力を注がなくてはなりません。

私は昭和19年11月、満鉄(南満州鉄道)社員を父に、旧満州牡丹江省穆稜(ムーリン)で生まれました。その後、父がソ満国境の綏芬河(スイフンガ)駅に助役で転勤し、綏芬河へ転居しました。昭和20年8月9日ソ連軍の侵攻による砲弾の音を背に、女性や子どもをソ連軍から逃すために仕立てられた特別列車で、母と私はこの地を後にしました。しかし、残った父は数時間後に玉砕しました。その時、父28歳、母24歳、私は9カ月、父の顔を私は知りません。1年後、母と私だけが引き揚げ船で、着の身着のまま栄養失調で、日本にたどり着きました。

平成13年8月、私は母と妻と娘と、慰霊のため穆稜と綏芬河を56年振りに訪ねました。

『財政健全化への闘い』は8月中は休みとします。筆者