走り続けた16年(86)

私の戦争体験 満州からの引揚げ①

7月5日に発生した西日本豪雨は、多くの市町村に想定外の猛威をふるい甚大な被害をもたらしました。また、過去に例をみない全国的な猛暑など、連続する異常気象は世界的傾向で地球全体に大きな影響を与えています。

我々の豊かで快適な生活が自然環境に大きな負荷を与えていることも一因ではないかと思われます。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い被災地の復興を願います。

今年も猛暑の8月を迎え、平和の尊さについて考える月でありたいと思います。

73年前の昭和20年8月は、6日広島、そして、9日は長崎に原爆が投下され、15日に終戦となり、日本が建国以来の激動の時でありました。その8月を今年も迎えました。

先の大戦の終結から73年が経過し、今、戦後生まれの人口が総人口の80%以上を占めるようになり、戦争体験のある人が減り、戦争の悲惨さが過去のものとなり次第に風化されてしまうことに危惧を感じています。

日本が敗戦の廃墟の中から立上がり、この平和と繁栄を築き物質的豊かさが享受できたのは、日本人の勤勉さや人間性、また、日本を取り巻く国際環境に恵まれたことと、先の大戦で犠牲になった英霊が礎にあることも忘れてはなりません。

私自身の平和について考える時、昭和20年8月9日のソ連の参戦が原点になります。当時、生後9か月の私と家族の戦争体験に触れてみたいと思います。

私は、昭和19年11月、父親が南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員だったことから、満州牡丹江省(現・黒竜江省)の穆稜(ムーリン)で、布施孝彦として生まれました。

父は、伯父(母の兄)の旧制中学の同級生で、卒業後、昭和10年銚子市役所に入所し、派遣で来ていた技術系の上司が銚子での任務を終え、満鉄に異動したことに伴い父も後を追って満鉄に転職し、満州に母を呼び寄せることになりました。

その後、父が満鉄の助役の試験に合格したことから、昭和20年4月牡丹江省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就任しました。スイフンガ駅はロシアとの国境の大きなターミナル駅で、父は大きな夢を持ち、やりがいある仕事に精力的に取り組んでいたとのことです。

私は市長に就任して3年目の平成13年8月、ムーリンの自分の生まれた満鉄の社宅と、父と別れたスイフンガ市を訪ねました。

ムーリンは典型的な中国の田舎町でしたが、スイフンガは風光明媚でヨーロッパを連想させる街づくりで、ロシアのリゾート地となっていました。そのスイフンガ市の中心部からロシア(旧ソ連)国境までの距離は約28キロメートルと至近の距離にありました。

日本とソ連との間には昭和16年4月から、昭和21年までの5年間の日ソ中立条約が締結されていました。しかし、ソ連はその条約を一方的に破棄し、有効期限内である昭和20年8月9日未明、対日参戦し、ソ連軍は国境を突破しスイフンガ市に砲撃を開始しました。

このソ連の参戦により、平穏で恵まれた私の家庭は、一瞬にして引き裂かれ、荒海に放り出されました。

(つづく)