走り続けた16年(82)

置き去られた乳児⑤

Aちゃんの母が妊娠していると気付いたのは、父となる人と別れた後であり、誰にも相談することもできず、悩み苦しんだ末一人で出産しました。

そして、Aちゃんは生まれて7日後の平成16年3月19日夜、本町5丁目の教会の玄関前に遺棄され、すぐに救急車で病院に運ばれましたが、元気で1週間後には退院し乳児院に移りました。

その乳児院は児童養護施設と併設されており、種々の事情により家庭で養育できない18歳までの子どもたちが整備された環境の中で生活していました。しかし、その中で親や親族が分からないのはAちゃんだけなのです。そのため、Aちゃんへ面会に来るのは私たちだけなのです。私は時間の都合が付く限りAちゃんに面会するようにしました。

子どもの成長は早いものです。ましてや月1回ぐらいの面会は、会う度ごとに大きな成長が確認され、私を楽しませてくれました。

それは、寝返りをする、お座りができる、這い這いをする。また、掴まり立ちし、そして、一人歩きができる、等々です。子どもの成長を早回しのビデオでも見ているようでした。

私がAちゃんに面会に行く時は、福祉推進課の坂田米子課長(後に小金井市初の女性部長)に多く同行してもらいました。坂田さんはいつも何らかのプレゼントを用意してくれていました。

私もAちゃんに手紙を書いたり写真を撮ってアルバムにしたり、プレゼントをさせてもらいました。

また、当時の大久保伸親副市長や坂田さんの職場の仲間たちからのプレゼントもありました。そのひとつに、「天からの恵み 受けてこの地球(ほし)に 生まれたる我が子 祈り込め育て…」の歌詞で始まる、夏川りみさんの「童神」(わらびがみ)のCDも含まれていました。

Aちゃんに面会する度、その成長を見て、今後どうしていくべきか考え悩みました。それを知る知人たちからは私が里親になって引き取ればいいのではないかと言われ、家族とも考えましたが、自分の年齢などを考えればそれは無理でした。

里親制度は、さまざまな事情により家庭での養育が困難で受け入れられない子どもたちを、温かな愛情と正しい理解をもった家庭環境で養育するもので、家庭生活を通して、子どもが成長する上で非常に重要なのです。特定の大人との愛情の中で養育を行うことにより、施設とは違った意味での子どもの健全な育成を図ることになります。

また、里親制度には実親との親子関係を存続したまま、養親との親子関係をつくる「普通養子縁組」や実親と暮らせない子どもが、血縁のない夫婦と親子関係を結ぶ「特別養子縁組」等があります。これは、普通養子縁組と異なり、実親との戸籍は抹消されることになり、養子となる子どもの実親(生みの親)との法的な親子関係を解消し、実の子と変わらない親子関係を結ぶ制度です。これには、養親の年齢制限など細かな成立要件があり、家裁が決定します。

(つづく)

走り続けた16年(81)

置き去られた乳児④

赤ちゃんの誕生は多くの人々に望まれ祝福の中で生まれてくるものです。しかし、Aちゃんの場合はそうはなりませんでした。人に知られず母親は悩み苦しみの中、誰にも付き添われることなく一人で出産しました。出産後はさらに悩み苦しんだ末、遺棄することになってしまいました。

母親の残したA4のレポート用紙に書かれた手紙は、「私には他に頼れる人がいません。あなた様の手で、この子を育ててくださる方を探してもらえないでしょうか。この子は、私といては幸せにはなれません。どうか救ってやってください。私のしていることは間違っていることだと分かっています。母親である私の手もとからこの子を手放したことを、この罪を一生をもって償いたいと思います。どうかお許しください」とあります。

一人で悩まず妊娠したことを親に話せば、親からは激しく怒られるでしょうが、それは、一時の問題で一生をもって償うことにはならず、出産に当たっては親をはじめ大勢の人々が喜んでくれただろうと思うと非常に複雑な気持になります。

赤ちゃんは生まれて7日後の平成16年3月19日夜、本町5丁目の教会の玄関前に遺棄されました。すぐに救急車で病院に運ばれました。母親はパトカーや救急車のサイレンの音をどんな気持ちで聞いていたのでしょうか。

赤ちゃんには病院で数回面会しました。とても可愛く健康で、何の問題もなく元気で1週間で退院し、乳児院に移りました。

その乳児院は児童養護施設と併設されており、保護者の種々の事情により養育することが困難な子どもたちを、養護・養育し、その発達や自立を支援することを目的に設置されています。概ね、0歳から18歳までの子どもをお預かりしており、定数いっぱいの40数名の子どもたちがいました。しかし、親や家族が確認できず、面会人のないのはAちゃんだけでした。そのため、私はできるだけAちゃんに面会するようにしました。施設近くでの仕事帰りや、時間が空けば妻と電車で行くこともありました。また、福祉推進課の坂田米子課長(後に小金井市初の女性部長)にはAちゃんを大変可愛がってもらいました。

坂田課長と一緒に面会に行くと施設の職員は「Aちゃんおじいちゃんとおばあちゃんですよ」と言いながらプレイルームに抱かれて入ってくるのです。

月1回ぐらいの面会でしたがその成長は私たちにとっても大きな楽しみでした。

その当時、市政は一般会計予算が3月26日市議会で否決され、国や都は小金井の街づくりを見限り、都市再生機構は撤退を決め、小金井市への損害賠償の算定に入ったと伝わってきました。

私は、4月に入り国交省に行き、5月24日に招集する臨時市議会で予算を可決させるので、再開発断念を待つように申し入れました。国交省の審議官等の幹部から、可決できない場合はどうするか、と問われたので、「市長を辞職して市民に信を問う」と答えると、その場の雰囲気が一変しました。

(つづく)

走り続けた16年(80)

置き去られた乳児③

平成16年3月19日、本町5丁目の教会の玄関前に乳児が遺棄されました。遺棄された女児が発見された時、毛糸のおくるみで包まれたベビー服だったようです。私が確認した所持品は紙おむつとおしゃぶり、5千円札1枚、手書きのA4のレポート用紙に書かれた手紙と小さな段ボールでした。その手紙は細かい字できちんと書かれた大変リアルな内容で、母親として自分の生んだ子どもを遺棄せざるを得なかった辛く苦しい心境が書かれていました。

母親は遺棄する前日、教会に電話しており「(教会の方に)話を聞いてもらい、温かい言葉をかけてもらえたこと、本当に救われた思いがしました。心からありがたく思います。あのままではどうなっていたか分かりません」と感謝の言葉がありました。また、教会の方の助言を無視して、遺棄する行動についてのお詫びも書かれていました。

この手紙はその時、電話で対応してくれた教会の方に向けたもので、その内容は、

「私の言葉をもう少しきいてください。」の書き出しで、妊娠していると気づいたのは付き合っている人と別れた後で、悩み苦しみ、おろすことも考えたようです。しかし、そのためのお金も相談する人もいないでいるうち、どんどんお腹が大きくなってしまい、どうすることもできず、人に隠し、病院にも行けずに、3月12日に一人で出産したとのことです。出産して、現実的にこの子を育てることができないと分かったようです。金も、時間も、助けてくれる人もいなく、親にも友達にも言えなかったのです。

「毎日、子どもを抱きしめ、命の重さを感じ、解決策を探しもとめました。しかし、考えても考えても答えは見つかりません。すぐに泣いてしまうこの子から少しでも離れることが怖くて、出産後からは我が子を腕に必要なものを買うため、暗くなってから出かけたりしています。動き回っているせいか体調も悪く体もだめになりそうです。そんな毎日が苦しいのです。ただ怖くて、一人ではどうすることもできなくて、壊れてしまいそうです」とあります。

「お願いします。私には他に頼れる人がいません。あなた様の手で、この子を育ててくださる方を探してもらえないでしょうか。この子は、私といては幸せにはなれません。どうか救ってやってください。私のしていることは間違っていることだと分かっています。母親である私の手もとからこの子を手放したことを、この罪を一生をもって償いたいと思います。どうかお許しください。」

「このような紙に、つたない文章で申し訳ありません。どうか、この子を、私を、お許しください。どうか、よろしくお願いいたします。あなた様を信じさせていただきます。3・19」と悲痛な叫びでした。

これは、母親が名乗り出ないこと、また、捜査が進まず情報が得られないことから小金井署が公開したものです。

教会関係者の適切な対応で最悪の事態は避けられました。

(つづく)