走り続けた16年(97)

「今、市政で何が」①

平成30年第3回(9月)定例会は、平成29年度の決算審査もあることから、8月30日に開会し10月5日までの長丁場となりました。

この定例会は現在の市政を象徴するような市議会だったのではないでしょうか。

その第1は、開会初日の人事案件で市・元部長の副市長選任同意の案件が不同意になったことです。その直前の教育長人事が全会一致で同意された後、副市長の採決では13人が退席したため、本会議に必要な定足数に達せず、その日の本会議は流会になりました。

議員も固有名詞の出た人事案件に反対するのは辛いものがあり、本会議の退席は賛成できないとの明らかな意思表示でしたが、西岡真一郎市長は議案の撤回もせず強行し不同意になりました。人事案件が不同意になることは極めて異例であり、否決されることにより元部長の人物評価に傷が付くことにもなります。議員の反対には必ず理由があります。しかし、それを明らかにすることは元部長の名誉を毀損することになり「市長の提案に丁寧さが足りない」との表現になるのです。

もし、議会の合意が困難なら撤回し、場合によっては再提案の機会もあったと思われます。西岡市長は提案に当ってはもっと慎重であるべきです。

第2は、職員の期末勤勉手当(ボーナス)のアップでした。多摩各市は年間4・5か月にもかかわらず小金井市は唯一4・3か月でした。昨年12月、本年3月にボーナスアップが提案され、議会が否決しました。それは西岡市政になり、それまで減らし続けてきた職員数や人件費総額が増え、行革が逆行していることに起因します。

本年3月、平成30年度一般会計予算は組替え動議の可決に伴って可決されました。その組替えは、ボーナスアップの予算の減額補正を求めるもので、市長がこれを了としたことにより予算が可決されました。そして、市長は6月議会でこの予算を減額しました。

3月議会で組替え動議に同意し、6月議会に減額補正したにもかかわらず、9月議会にボーナスアップの条例とその予算を再度提案するという一貫性のない行動となりました。

しかし、議会は賛成多数でボーナスのアップを認めました。これまで反対してきた議員が賛成に転じたということです。

職員給与に関して、東京都の人事委員会の勧告を尊重するというのは議会共通の認識ですが、今回、議員の態度が変わったのは、ボーナスアップが否決されることで、職員のモチベーションが低下する、というのが理由のひとつのようです。民間企業であれば当然、勤労意欲が高まり、成果が上がったことによりアップするのではないでしょうか。職員の勤労意欲が低下していることがボーナスアップの理由とすれば、果たして市民の理解が得られるのでしょうか。次の都人勧への対応が注目されます。

もし、職員のモチベーションの低下があるとすれば、それは、給与ではなく別のところにあるように思われます。市長のリーダーシップに期待したいものです。

また、この様な状況の中、第3は、保育園の民間委託化の2年の延期が本定例会中に表明されたことです。

(つづく)

走り続けた16年(96)

市制施行周年事業⑤

本年の市制60周年事業の目玉は、林望先生らによる小金井市歌の制定になると思われます。東京都歌のように誰にも歌われずお蔵入りになることを危惧しましたが、我が家の娘が「高校2年の時、都の洋上セミナーで2週間中国に行った時、毎朝歌ったので今でも忘れず都歌は歌える」には驚きました。

周年事業の大きなエポックは半世紀の50周年で、巡り合わせて平成20年に私が担当することになり、様々な事業を展開しました。

記念式典での市政功労者等受賞者は572名にも及びました。

7月末の、「中東和平プロジェクトin小金井」はイスラエルとパレスチナの紛争により肉親を失った両国の高校生を小金井に招いての事業で、特に印象に残っています。平和を願い、両国の憎しみの連鎖を断ち切ることを目的に、庁内にプロジェクトチームを結成し、両国の遺族による遺族会との繰り返しの協議、両大使館や外務省、警視庁との打合わせを重ね、絶対に失敗の許されない事業に全精力を傾注しました。小金井での両国の高校生はペアでホームステイし「お互い銃を向け合うのは止めよう」との会話に事業の成功を確信しました。

帰国に合わせて、全員で首相官邸を訪問、その成果を報告しました。また、麻生太郎総理大臣が9月の国連総会の一般討論演説で、この事業を詳しく世界に向け発信しました。

「あなたたちは、私たちに忘れられない経験を与えてくださいました。一生に一回のこの並外れて素晴らしい経験をさせてくれたすべての人に感謝したい」とのお礼状は平和に向けての一粒の種が蒔けたとの思いです。

50周年巡回ラジオ体操は会場の小金井公園に3千400人を超える人々が集い、NHK教育テレビで全国に生中継されました。

また、名誉市民条例を制定し、作詞家の星野哲郎、スタジオジブリ監督の宮崎駿の両氏を小金井市初の名誉市民に選定しました。

メインエベントの「黄金井・11万人のキャンドルナイト」は市の公募により採択された事業で、11月8日(土)都立武蔵野公園の野川沿い約2㌔㍍に4千個のキャンドルを並べたキャンドルロードが作られ、足元に並ぶキャンドルに照らされた野川沿いは幻想的な世界が広がり、約2万5千人の人々が虫の音や川のせせらぎの中を、思い思い歩かれました。また、電気を消し、ロウソクを点してゆったりした語らいの演出をしたライトダウン・キャンドルナイトの呼び掛けに各家庭が呼応し、幻想的な一夜となりました。

11月は、東京学芸大学で、隣接する7市との8市長サミット・シンポジウム「雨を活かすまちづくり50年の継承」を公開で実施し、環境問題に関する共同宣言を採択しました。

55周年の平成25年、調布飛行場を離発着する飛行機からナスカの地上絵ならぬコガネイの地上絵の制作は、計画した場所の許可が得られず各学校や小金井公園、武蔵野公園に20〜30年は消えない子どもたちの思い出の絵を描いてもらいました。

周年事業を契機に小金井市の歴史を振り返り、更なる躍進の礎にしたいものです。

(つづく)

走り続けた16年(95)

市制施行周年事業④

小金井町が市制施行に至るまで「市町村合併促進法」に基づき、近隣の市・町との合併の動きもありましたが実現しませんでした。小金井町を含む3万人以上の人口を擁する全国60数町が小金井町の鈴木誠一町長をリーダーに、「市制施行人口要件改正期成同盟」をつくって国会に向けて運動を展開してきました。この運動が功を奏し、特例として期限付きで、人口要件を3万人とする地方自治法の改正が行われました。

昭和33年10月1日、小金井市の誕生です。多摩地域では10番目の市となり、5日間もの間祝賀行事が続き市民全体に溢れる喜びと明るい希望の中で、華やかに、盛大にスタートしました。並行して小金井市社会福祉協議会の誕生もありました。
その後、

市制施行の周年事業は5年刻みで行われてきました。

周年事業を弾みとして記念事業を展開することもあり、市民の皆さんがその行事等に参加することにより、市への郷土愛へとつながりました。また、子どもたちは楽しい思い出作りにもなりました。

昭和38年10月1日の市制5周年の記念式典は、竣工された小金井市公会堂で、その落成記念式典とともに盛大に催されました。市民待望の公会堂は約千人収容できる円形大ホールで、取り付け道路等の難題を乗り越えての竣工でした。公会堂は集会や催し等の各種イベントに多くの市民に活用され、市の文化施設として円形のホールは市民の誇りになりました。当時は、新宿から西への中央線では杉並公会堂に続く施設として、一流の歌手の歌謡ショーやNHKや民放テレビ番組の中継や収録などにも多く活用されてきました。しかし、老朽化が進み、雨漏りや電車音や雨音が会場に入るなど、次第に音楽等に使うには適さない施設になってしまいました。

平成19年、老朽化と武蔵小金井駅南口第一地区の再開発のため惜しまれながらも、解体することにしました。駅の至近距離にあることもあり、約45年間にわたり市の文化芸術の拠点として、市内外の多くの人々に利用されてきました。

15周年となる昭和48年は、それまでの文化祭、商工祭、子供まつり等を統合し「市民まつり」と称して発展し現在に至っています。

昭和53年の20周年は、式典の中で小金井市の永利友喜市長と三宅村の大沼良三村長との署名により友好都市盟約が締結され、即日発効されました。

小金井市と三宅村は歴史的縁により、小金井のさくらと三宅島のアジサイや人的交流が盛んになり、小金井市唯一の友好都市となっています。

市制施行記念の周年を迎える10月1日を市役所の休日とする年もあり、小金井市の魅力を発信する刊行物や歴史を残すための各種出版物が発行され、祝賀行事等で盛り上がりました。福祉会館、障害者福祉センターや文化財センターなども竣工されています。

また、市の木をけやき、花はサクラ、虫はかんたん、鳥はかわせみ、とし、道路や坂道、橋の愛称の命名もしてきました。

この周年の年を、昔の小金井を振り返る機会にし、次へのステップにしたいものです。

(つづく)