走り続けた16年(109)

鯉の救出作戦

地下水を涵養し水道水として使用することや、はけの湧水や野川の清流を守るため、小金井市は、市民の協力で屋根に降った雨をそのまま下水道に流さず、雨水浸透マスを通して地中に浸透させ地下水の涵養に努めてきました。しかし、毎年降雨量の少ない冬季は湧水の不足が心配されます。そして、春になると樹木が水を吸収することから、野川への湧水がさらに減ってしまいます。そのため野川は数年に一度は本年のような渇水状態になり川は砂利道の様相に変わってしまいます。

私は平成11年4月の市長就任間もなく、多くの市民からのご意見を直接お聞きするため、市長室にファクシミリを設置し24時間、いつでもお受けできるよう「『市長へのファクス』ふれあい24」を始めました。

そこに、平成12年2月19日、市立前原小学校(前小)3年生の男子児童から手書きの「市長さんコイを助けてください」のファクシミリが届きました。

それは、渇水により干上がった野川に辛うじて残る水の溜まりに多くの鯉が背びれを出し懸命にもがいているコイの姿と無数の小魚でした。私も、この様な状況を見て頭を痛めていました。野川に面して住む市民が水道水をホースを伸ばし橋の上から給水する状況も見られました。

天気予報では当分の間、雨は無いとのことでした。そこで、東京都北多摩南部建設事務所(北南建)と協議し、コイを救出することにしました。委託業者が水槽をトラックに積み、大きな網ですくったコイをその水槽に次々と入れました。野川を遊び場にする子どもたちも、遊び相手のコイや小魚を救うため、野川に入って魚を助けるため奮闘したり知恵を出し合いました。30~50㌢㍍もあるコイを百数十匹も捕獲し、市立南中学校(南中)の協力で、そこのプールに保護しました。助けられたのはコイだけではありません。多くの小魚も干上がる寸前の野川から子どもたちの手によって救出され、前小の校庭にあるビオトープ(池)などに放たれました。

南中の生徒は休み時間にプールサイドでコイなどが悠々と泳ぐのを観賞していました。しかし、プール開きが近付いたことから、一旦、前小のプールに移しました。さらに前小のプール開きも近付いたことから、前小の子どもたちと北南建も入ってコイを今後どうするかを前原西之台会館で話し合いました。

結果は野川下流の多摩川に近い地点に放流することを決めました。そして、再びプールで泳いでいるコイを網ですくってトラックにある水槽に移しました。プールの中では多くの稚魚が育っていて、子どもたちは校庭にあるビオトープに放したり、ビニールの袋などに入れて家に持ち帰ったりもしました。

このコイの救出作戦はテレビや新聞等マスコミにより全国に向けて大きく報道されました。それは、小さな生物の命を大切にする小金井の子どもたちの行動が高く評価されたのです。報道は、命を大切にする優しい心の子どもたちが育つ地域であり、学校と家庭と行政が連携・協力しあっている小金井市を象徴する内容でした。

(つづく)

走り続けた16年(108)

大変です野川が涸れています

春ですね、薄手のコートに着替えて街を歩いてみませんか。

私のウオーキングコースは緑町5丁目の自宅から二枚橋へ、野川を国分寺との市境の鞍尾根橋へ、北に向かって東京学芸大学を横切り小平市の喜平橋。そこから玉川上水を下流の小金井橋を経て小金井公園を横断。武蔵野市桜堤から亜細亜大学を通って中央線高架側の武蔵野ふるさと歴史館へ。その後、東小金井駅を経て自宅へ約5時間の歩行、距離は約23㌔㍍です。途中でラジオ体操やコンビニでコーヒーブレーク、史料館で本や新聞を読んだりもします。時間などに制約が無い場合はこのコースです。しかし、その日の気分などによっても変わりますが、二枚橋と鞍尾根橋まで市域を横切る野川は週に2~3回は歩いています。多くの方々と挨拶を交わしたり、季節の移り変わりを体感することは素晴らしいことです。時には、国分寺市の源流真姿の池から野川の流れに沿って世田谷区二子玉川の多摩川との合流点までも歩きます。これは、野川の全域であり、溢れる自然の魅力が満喫できます。

その野川が渇水に喘いでいます。湧水を集めて流れる清流野川は、今年は雨が極端に少ないため「はけ」の湧水が湧き出る箇所も量も少なく、流れになる状況にありません。

2月27日、真姿の池から三鷹市大沢まで歩きました。真姿の池も湧水が極端に減少しており、日立中央研究所の湧水との合流点である国分寺市一里塚の不動橋も湧水の動きがなく溜まっている程度で、市境の鞍尾根橋は乾き切っています。

また、東京経済大学にある新次郎池は通常であれば丸池を取り囲む5か所の湧水口から水が湧き出しているのですが、その全てが止まっており、新次郎池にも水は無く、底の泥が見える状況でした。

小金井市域を東西に横切る野川は、小金井市のシンボルです。その野川が渇水状態で、川底は砂利道のような状況になっています。

小金井市に入って貫井神社の湧水は日頃の勢いには到底及びませんが、湧水は野川に届き新小金井街道と交差する貫井大橋までで消えており、それより下流は二枚橋まで所々に水溜まりのような所もあるものの完全に干上がっています。

はけの森美術館の湧水も涸れて、無残な状況を呈しています。

その様な状況ですので、どこにも魚の姿はなく、鳥も少なくなっています。

二枚橋を過ぎて野川公園の三鷹市域の自然観察園を過ぎると、ほたる川など3本の川から通常より水量は減ってはいるが、湧水が野川に注いでいます。そこから、三鷹市、調布市へと流れは続いています。小金井市の雨水浸透事業によって地下に浸透した雨水は東西の方向に向かって流れ、三鷹市域に注いでいるようです。

これまでも数年ごとにこの時期は渇水が起こっています。多くの魚が水が減ってきた中でカラスなどの餌食になっているのを見るのは辛いものです。

その後、恵みの雨も降りましたが野川を潤すまでにはなっていません。この文章を読んでいただく時には渇水状況が解決していることを願っています。

(つづく)

走り続けた16年(107)

芳須仙吉さん死去

芳須仙吉さんが、本年1月2日、静かに百歳9か月の人生に幕を閉じられました。

芳須家とは奥様のスギさんが生け花の先生であったこともあり、長い間、家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。

芳須さん宅での話の中で、この自宅と前にあるアパートを土地付きで寄付したいと言われたのです。場所は東町1丁目の東センターのすぐ東側です。鉄筋3階建てのアパートには居住者もいて、そのままでは無理なので寄付していただけるなら更地でお願いしたいと申し上げました。芳須さんは、アパートの居住者との契約を解除し、ご夫妻は青梅慶友病院に入院され、木造2階建ての自宅とアパートを解体し、更地にして平成27年6月小金井市に寄付されました。解体費用ぐらい市で負担すべきという声も聞こえ、心苦しい思いでしたが、芳須さんは快く私たちの要望を聞き入れてくれて実現しました。

その時の芳須さんの希望は、ご自身が生れ育った小金井市のために、大勢の高齢者が集い憩う施設で、子どもたちも気軽に来られる賑わいのある施設にして欲しいということでした。私は、その希望に沿った計画に入るには5年ぐらいの年月が欲しいと申し上げました。そして、芳須さんご夫妻からの寄贈を後世の人々にも理解してもらうため、敷地内に石碑を建てることを約束していました。

芳須仙吉さんの葬儀は、1月7日太陽寺において、バイオリンが奏でられる音楽葬で、しめやかに営まれました。ご本人のたっての願いで、お身内だけの限られた方々での葬儀でしたがお声掛けをいただき、私も参列させていただきました。

棺を覆うにあたり、一枚の水彩画を手渡され棺に入れてほしいとのこと。それは桜の大木の幹を描いたもので、一目で芳須さんの作品と分かるものでした。とっさに、この絵を高齢者施設が完成したらそこに飾りたいと思ったのですが、遺品を欲しがってるようなので諦めました。今では、事情を話して保管しとくべきだったと悔やんでいます。

芳須さんは、戦争中南方の島で23人の戦友を失い、ご自身を含め4人が生き残り、自らも砲弾の破片を体に抱えていたようです。そのため、世界平和を強く願い、昨年6月の米朝首脳会談の実現を喜んでいました。

帰国後、スギさんと結婚し幸せな家庭を築かれ、老後はお互いに趣味等を楽しむ生活を送られていました。

平成23年7月、一見ホテルを思わせる施設の慶友病院にご夫妻で入院、行き届いたサービスにより快適な日々を過ごされていましたが、奥様のスギさんが平成25年4月、その慶友病院で逝去されました。それでも、気丈に病院での生活を楽しんでおられました。

亡くなる2〜3週間前、小金井観光まちおこし協会の発行した写真集『昭和の小金井』を持ってお見舞いに伺ったのが最後になりました。その写真集にいろいろな印が付けられていたとお聞きし、今と昔の懐かしい小金井の街の写真を御覧になっていただけたと思うと嬉しくなりました。

「これでいいのか小金井市政」は、市議会終了まで休みます。