走り続けた16年(30)


財政健全化への闘い ⑱

小金井市は昭和50年前後の8年間、「費用と効果」を全く度外視した、市職員による直営主義の革新の市政が執り行われました。

昭和46年の小金井市の人口が9万2千人であったのが、革新市政の終えた昭和53年は9万9千人と7千人、約8%増に対し、職員数は662人から1千130人と実に倍近くに増員するという取り返しのつかない失政を犯(おか)し、市財政を長期間に渡り苦しめることになりました。

これは、市の事業は市の職員で行うという主張から、常軌を逸した強力な正職化運動を展開する職員組合、そして、それに屈した市長。また、チェック機関としての役割を果たせなかった議会の責任も重いと言わざるを得ません。しかし、市長も議員も市民が選んだ人たちであることを私たちは肝に銘じなければなりません。

前号まで数回に渡って掲載した学校施設警備以外にも、建設部土木課維持補修係も当局の管理が行き届かない部署のひとつであり、革新市政以降も旧名称の「工事二係」と恐れられ、数多くの問題を起こしました。

平成2年第一回(3月)定例会で市議会は次のような決議をしました。

『市役所庁内秩序の回復と確立を求める』(要旨)
平成2年3月28日の予算特別委員会において、土木課維持補修係職員等の傍聴者が市長の答弁に対して一斉に不満の声をあげ審議の続行が不可能になった。これに対して委員長から傍聴者に対し、強く注意を促すという事態が生じた。

かかる状況下で市長が体調を崩しドクターストップとなり、本定例会の会期の延長を余儀なくされることに至った。

その原因の一つには、平成2年度一般会計予算の審議における土木費の経費にかかる予算特別委員会の審議の成り行きに不満を持つ維持補修係の職員を主体とする一部市職員の業務打ち合わせと称したこの抗議行動にあるといっても過言ではない。

あまつさえ、3月29日には本庁舎4階議会棟東階段入口において37名の係員のうち30数名の職員が勤務時間中にもかかわらず激しい態度で助役に迫って取り囲み、動きの取れない状況にするなどの事態は常軌を逸したものというべきである。その後、職場担当課長が職場復帰命令を出しても応じようとせず、議会運営委員会を中断せざるをえない状況に追い込んだ。職場を放棄し、職務に専念する義務に違反したことは、地方公務員法に背反する行為である。

このような、あたかも議会審議に介入するかのごとき維持補修係を主体とする一部職員の不見識な行動は、まじめに働く他の職員の名誉を傷つけ、ひいては市民の良識と名誉を汚す行為であり、本市議会は断じて容認することはできない。かかる異常事態を招来した原因と責任は、挙げて市政運営の最高責任者たる市長にある。市長は、勇断をもって維持補修係を管理可能な職場として、市民に応える機能に改善すべく早急に対処されたい。

以上の決議が、共産党と青木ひかる議員を除く全員の賛成で議決されたのです。

(つづく)

走り続けた16年(15)


財政健全化への闘い⑦

私が小金井市に移り住んだのは43年前、昭和48年9月でした。

学生時代に、田無市(現・西東京市)に住んでいたこともあり、住むなら文教・住宅都市で、交通の便もよく環境に恵まれた小金井市にと思い、狭いアパートでの生活が始まりました。

当時、都知事は美濃部亮吉氏であり、多摩各市にも多くの革新市長が誕生した時代で、小金井市も永利友喜革新市政が誕生し、2年半くらい経過した時でした。労働運動も活発な社会的風潮とはいえ、小金井市の労働運動は異常でした。

なぜこの様な激しい運動に突入していったのかと考えると、前号6月21日号当欄に記したように、当局の姿勢が非常に弱腰で、組合に立ち向かう毅然とした対応がなかったこともその一因です。

昭和52年11月24日の日本経済新聞が、全国644都市の昭和51年度の都市財政を独自の調査をもとに分析し、小金井市の財政問題について、人件費比率が全国ワースト1位であること等、一面と見開きのページで大きく報じました。しかし、それ以降も昭和57年度まで7年連続、昭和58年度は2位でしたが、昭和59年は再びワーストに戻ってしまいました。

小金井市の人件費比率がワーストになったのは現業部門の正規職員化と表裏一体でした。全国的にも、多摩地域でも、労働条件、賃金、仕事の範囲など、現業としては比類のない程に突出している現業の直営化は多摩地域には見られないことであり、全国にも例のないことだったと思っています。

その様な間に、我が家にも子どもが生まれ育ち、夏はプールに行くようになると、市内には二枚橋焼却場のプールしかなく、小金井から大勢の人が設備の完備している府中市郷土の森にある市民総合プールにバスを乗り継いで行くのでした。

府中市民プールの料金設定は非常に低料金ですが、市外の人は府中市民の倍の料金になります。そのため、小金井の子どもたちも慣れてくると、府中市民の窓口に並ぶようになることも生じていました。このことは大人にとっては非常に辛いことでした。私が小金井市政に強く関心を持つようになったのは、まさにこれが原点です。

小金井市民は担税力が非常に高いにもかかわらず、公共施設の整備や街づくりが遅れるなど市民サービスが行き届かない根本は何なのかを考えました。そして、地方自治に関心を持ち、市政の改善の方策を考えるため図書館で資料を閲覧したり、議会を傍聴したりしました。

その様な中で、分かったことは、小金井市の労働組合の異常な強さが、現業直営化による職員増を招き、それが、そのまま人件費を押し上げ、財政悪化を生じさせたことにより、市民サービスの低下となりました。「市民のための市役所」とはいえない状況を作ってしまったのです。

これを正すには市議会議員になることだと考え、昭和60年の市議会議員選挙への立候補を決意しました。
(つづく)

走り続けた16年(11)


財政健全化への闘い③

小金井市政最重要課題は人件費問題でした。

昭和50年代の10年間、一般会計に占める人件費比率は、全国ワースト1位が7年連続を含めて8回、2、3位が各々1回と惨憺(さんたん)たるものでした。

小金井市の人件費等の変化を比較するため、統計として確認できる昭和43年度以降で、最も高かった年度とその数値、私が市政を引き継ぐ直前、大久保慎七市政最終年の平成10年度の決算、そして、私の任期最後の平成27年度予算を比較してみます。

先ず、人件費比率は、革新市政真っ直中の昭和51年度が45・2%、で最大であり、そして、平成10年度は32・3%、私の任期最後の平成27年度予算では16・2%でした。

また、職員数は革新市政最後の昭和54年度1130人。平成10年度は915人、そして、平成27年度は658人まで減員を果たしました。さらに、人件費総額は平成7年度が最大で約104億円、そして、平成10年度は約99億円に。その後、削減をすすめ、平成27年度は60億9千万円までに減ずることができました。

私の在任16年間の経常収支比率、人件費比率の改善率は多摩26市でトップです。人件費比率はあくまで比率ですから分母となる、その年度の予算規模によって変動もあります。平成22年度ようやく10%台に改善し、それ以降は10%台がキープされており、平成27年度の当初予算の16・2%は、やっと他市に追いついたということで、ここまで改善するのに30年以上もかかったことになります。

革新市政の誕生の昭和46年度以降、人件費比率が10%台までに下がった平成22年度までの39年間で、人件費比率40%台が9回、30%台が19回、20%台が11回でした。人件費比率の1%は3〜4億円に相当するものであり、行革のメルクマール(指標)といっても過言ではありません。

地方公務員である市職員は法によって手厚い身分保障があります。民間のように経営状況の悪化を理由に解雇できないのです。一度雇用したら定年まで雇い続けることを想定しなければなりません。それが昭和50年前後の失政の挽回に時間を要した理由です。

人件費問題の失政は、それを改善するには、長い年月とたいへんな労力を費やすことになります。

また、人件費の圧迫による財源不足は、本来、受けるべき都や国の補助対象の事業にも市の原資がないことから着手できず、他の自治体が都市整備を進める中で、結果的に小金井市の街づくりの遅れにもつながりました。市民の皆さんの納めた国税や都税が小金井市に十分に還元されなかったのです。市民にとっては二重三重の不利益となりました。

私は、職員数の削減を基本に、わたりの廃止など給与制度の適正化を図り、30%超の人件費比率を16・2%まで下げることができました。

それは、市民や議会の理解、そして、財政健全化へ我が身を削る職員の協力があって果たせたことでした。
(つづく)