走り続けた16年(62)

衆院選 ④

私が前衆院議員の土屋正忠を知ったのは学生時代で、今から50年も前のことでした。しかし、親しくなったのは、昭和58年の武蔵野市長選挙で多少の手伝いをして以来であり約35年になります。

昭和60年に私が小金井市議会議員になって14年間、さらに、市長としての16年間、地方自治の大先輩とし、また永年の友人としてアドバイスをもらうとともに、小金井市の街づくり等にも尽力いただきました。

長い付き合いの中で、人柄、情熱、先見性、決断力、そして、政策形成能力を見るにつけ、まさに政治家になるべくしてなった人だと思っていました。いつか小金井市も選挙区となり投票用紙に「土屋正忠」と書ける日が来るのを期待し、その時、自分がどの様な役割が果たせるかを考えていました。

菅直人は参院選を含め3度目となる昭和55年の衆参同時選挙で衆院初当選。以降、抜群の知名度で連続当選を続けており、自民党は候補者擁立に苦慮してきました。

衆院選が小選挙区制に変わり、東京18選挙区が武蔵野市、三鷹市、小金井市と決まり土屋と一緒にできるという念願が叶いました。その時、私に「おめでとう」の電話も数本入りました。

土屋は地元武蔵野市は勿論、多摩各地域においても地方自治のリーダーとして、国や都とのパイプ役を果たし多摩地域の発展に尽力してきました。当然、土屋に衆院選出馬要請があります。しかし、「自分は中小企業の社長が似合っている、生涯市長だ」と断り続けていました。

平成8年、小選挙区最初の選挙が執行され、東京18選挙区(当時は武蔵野市、三鷹市、小金井市)は菅の11万7千票に対し自民党候補は2万4千票。次の平成12年は11万5千票に対し5万票。

三度目の平成15年は知名度の高い鳩山邦夫が比例での当選の保証を受けて挑みましたが、菅の14万票に対し8万3千票の得票で約5万6千票の大差をつけられました。

平成17年8月8日の小泉純一郎首相により衆院は解散しました。いわゆる郵政選挙です。武蔵野市、府中市、小金井市の18選挙区は、小泉総裁をはじめ党役員直々の要請を受け、土屋が市長を辞しての出馬を決意しました。私はその情報を遠いポーランドで聞きました。帰国した私は満を持して早速選挙の準備に入りました。

衆院選候補者の公開討論会が行われる小金井市公会堂に二人で歩いて行く途中、土屋が「菅には比例での復活は止めて、小選挙区一本での勝負を申し込む」と言うので、私はその発言はしないでほしいと伝えました。

比例名簿が29日に発表され驚きました。自民党は東京ブロック1位が猪口邦子、2位が土屋、3位は小選挙区立候補者23人が横並びでした。そのため猪口と土屋は戦う前から当選が決まってしまったのです。当然相手陣営は「土屋の当選は決まっています。18区からもう一人の衆院議員を…」という宣伝が繰り返されました。

その結果、選挙は7千800票差まで肉薄しましたが、菅の勝利となりました。党本部の温情が仇となり、自民党圧倒の中で不利な戦いを強いられてしまいました。(敬称略)

(つづく)

走り続けた16年(61)

衆院選 ③

平成17年8月8日、小泉純一郎総理大臣は最重要課題である郵政民営化関連法案が参院で否決されたことから衆院を解散しました。

解散は総理の専権事項であるものの、参院で法案が否決されたことにより、衆院を解散することには理解に苦しみましたが…。

衆院は解散しましたが、私はすでに計画していたこともあり、8月12日、ポーランドとチェコの旅に出ました。これは戦後60年の節目の年に、第二次大戦中のナチスドイツのホロコーストにより、ユダヤ人であるというだけで500万人ともいわれる人々が残虐な手段で命を奪われました。人類史上最も悲惨な負の歴史、その虐殺の現場であった強制収容所のあるアウシュビッツの地を訪れるのが目的でした。

市長職は常勤であり土・日・祝日は各種行事等に参加することから年間を通して休める日は数日に限られます。仕事が趣味の私はいいが、共に働く職員は大変でした。職員には、夏休みは1週間まとめてとり、リフレッシュして仕事に取り組むように勧めていましたが、私が休まなければ休みにくいと聞き、例年8月のこの時期に夏休みを取ることにしていました。海外に行った時は1日に2回は市役所に連絡を取るようにしていました。

ワルシャワから市役所に連絡すると、秘書から保坂三蔵参院議員から度々電話があり、帰国するまで待てないので私から電話が欲しいとのことでした。止むなく自民党都連幹事長の保坂に電話すると「土屋正忠武蔵野市長に衆院選に出てほしいので、あなたから勧めてほしい」とのことでした。私は「それは本人が決めることで私には僭越で言えない」と断りました。

「土屋市長が立候補したら応援してもらえるか」には、「勿論、全力で応援させてもらいます」と応えました。さらに「誰が説得すれば効果があるか」には「小泉総裁でしょう」と言いました。

ポーランドの史都クラクフから、ナチスの強制収容所のあったアウシュビッツへバスで移動中の15日午後、私の携帯電話でなくバスのドライバーに日本から電話が入りました。それは、私の娘からで、「ネットに土屋さんが自民党本部に入ったと出ている、党本部には小泉さんが待機しているようです」という内容でした。

ドライバーの電話機だったので同行のツアー客には会話の中身が筒抜けで、それ以降は度々、衆院選が話題になってしまいました。

土屋は小選挙区制度の導入後、選挙の度ごとに立候補の要請を受けていましたが「自分は中小企業の社長が似合っている、生涯市長だ」と言って断り続けていたのです。

翌日、土屋から電話があり、「出馬を決意した」とのことでした。党は総裁、幹事長等役員が対応し「総理、総裁に頼まれれば断ることはできない」と言い、私には途中で旅行を切り上げないで最後まで楽しんでくるようにとの話でした。

「世界で最も美しい街」との妻の勧めのチェコの首都プラハでも、私の頭の中はアウシュビッツの強制収容所と衆院選のことでいっぱいでした。(敬称略)

(つづく)

走り続けた16年(60)

衆院選 ②

10月22日投開票された第48回衆院選は事前のマスコミの予想どおり、与党、自民・公明の両党が総定数465議席のうち、憲法改正の国会発議に必要な3分の2を超える313議席を獲得し圧勝しました。

しかし、武蔵野市、府中市、小金井市の東京18選挙区は自民党の土屋正忠、立憲民主党の菅直人、希望の党の鴇田敦の3人が立候補しましたが、実質的には「土菅戦争」と呼ばれる土屋と菅との5回目の一騎打ちの様相となりました。

選挙前の土屋が一歩リードのマスコミ報道は選挙対策の責任者である私にとっては困惑する情報発進でした。従前の選挙の菅の得票数に共産党票を加えれば、それは自ずと明らかだからなのです。

結果は、菅の9万6千713票(40・73%)に対し、土屋は9万5千667票(40・29%)と1千46票(0・44%)の僅差で菅の勝利となりました。因みに小金井市では菅の2万4千126票に、土屋は2万1千126票と3千票の差でした。従来から革新が強いとされてきた武蔵野市、小金井市であり比例代表選でも自民党は立憲民主党に及びませんでした。

土屋を支援する議員や選対メンバー、市民の方々には頑張っていただきました。敗因は転出入の多い市民に、土屋の人柄や実績、それに、これからも地域にとっても必要な人であることを伝え切れなかったことです。73歳以上は比例名簿に登載しないという自民党の規約により、東京25選挙区で最も高い惜敗率にもかかわらず、土屋の比例復活はありません。一方、菅は民進党が合流する希望の党から「排除」されたことが幸いし、塞翁が馬を感じさせる当選を果たしました。

土屋と菅との最初の闘いは平成17年8月、小泉純一郎総理主導の郵政民営化の議案が参議院で否決されたことから小泉総理による郵政解散の衆院選でした。土屋は小泉総理から直々に懇願され武蔵野市長を辞職しての立候補で、9月11日の衆院選では菅12万6千716票、土屋11万8千879票で、その差、7千837票で菅が当選しました。

この選挙で自民党は比例名簿1位に猪口邦子、2位は土屋が登載され、他の小選挙区の候補者は全員が惜敗率により復活当選が決まる並列3位にランク付けされました。そのため、土屋の比例での当選は戦う前から決まってしまいました。この選挙に関しては後日、詳しく報告させていただきます。

二度目の対決は平成21年、自民党に逆風の政権選択マニフェスト選挙で、民主党が308議席を獲得し、鳩山由紀夫による政権交代の実現、自民党は下野しました。この選挙で、菅の16万3千に対し土屋は8万8千票で落選し、3年3か月間の浪人生活となりました。

平成24年12月の三度目の対決は土屋が総理をも経験した菅に勝利したが、菅は比例で復活しました。また、自民党は294議席の当選を果たし3年3か月振りに政権に復帰しました。

3年後の平成26年12月、四度目の選挙も土屋が勝ち、菅は衆院選最後の議席となる475番目での比例復活でした。そして今回、五度目の戦いとなりました。(敬称略)

(つづく)

走り続けた16年(6)

小金井市長選挙⑥

昭和58年1月14日付朝刊が、武蔵野市議会議員土屋正忠氏(現・衆議院議員総務副大臣)の4月の武蔵野市長選挙出馬を報じました。

土屋氏とは古くからの知人である私は、小金井市民ではあるが積極的に選挙戦を手伝わせていただくことを伝えました。選挙の手伝いはポスター貼り、ビラ配りや車の運転など、単純労務ですが選挙を身近なところで携わることができ、いい経験をさせていただきました。

相手候補は2期目に挑戦する現職の藤元政信氏であり、私は厳しい選挙だと感じていました。選挙の争点は選挙中もマスコミに大きく取り上げられた職員の4千万円の高額退職金問題になりました。両候補ともこの退職金の是非を訴えていました。

翌日開票の開票速報は、発表の度ごとに順位が入れ替わる状況でしたが土屋氏が859票の僅差で勝利し、20年に及んだ革新市政にピリオドが打たれました。

5月2日初登庁した土屋新市長の喫緊の課題は、公約に掲げた職員の退職金引き下げです。早速、自ら担当職員に指示し、改正案の作成に取組みました。そして、改正案を17日には職員労働組合に提示し連日の団体交渉が行われました。

しかし、大幅な引き下げ案であることから、なかなか妥結に至らず、自治労都本部は現地闘争本部を市役所内に設ける程の取組みでした。全国から動員され組合旗を掲げて市役所を取り囲んだ自治労組合員は2千人ともいわれ、連日、新聞、テレビなど報道関係、右翼や警備の機動隊、上空は報道取材のヘリが舞い、庁内はジグザグデモと大混乱です。ついに26日朝、職員組合はストに突入し、武蔵野市全体が大混乱となりました。

土屋市長は国民注視の中、公約である高額退職金是正のため、本人自らが連日の徹夜交渉に臨み、28日未明になってようやく労使合意を果たしました。

退職金削減の議案は6月2日の本会議で全会一致で可決されました。内容は、勧奨退職の5割増の優遇措置を廃止し、退職金支払い月数の上限を110カ月を95カ月とし、その後の削減は再度協議するというもので、翌月7月1日から施行で退職金は1千万円のカットとなりました。

私は、自民党の宣伝カーで武蔵野市議会議員の街頭演説に同行、宣伝カーが市役所駐車場に入る時は、大勢の組合員に取り囲まれ車を揺すられるなど身動きできず恐怖を感ずる程でした。市役所では自民党の控室などで待機する議員と行動をともにし、この「武蔵野ショック」の凄まじさを直接体感しました。

選挙公約を成し遂げるため、41歳の土屋市長の鬼気迫る気迫を目の当たりにし、その卓越した能力や覚悟、そして、力には屈しないその信念は並ではなく、改めて凄い人だと実感しました。これは、土光臨調、中曽根行革と並び称され、その後、全国に波及する地方行革の先陣を果たしたと、高く評価されました。

この経過等に関しては〝高額退職金是正に燃えた30日〟のサブタイトルで、武蔵野百年史編さん室が編集し、武蔵野市が発行した「武蔵野ショック」に詳しく書かれています。
(つづく)

走り続けた16年(2)

小金井市長選挙②

昨年12月13日に執行された小金井市長選挙で西岡真一郎氏が当選し、18日から新市長による市政がスタートしました。選挙の最大の争点は庁舎問題となりました。

西岡氏は、庁舎建設用地の蛇の目跡地に市庁舎、福祉会館、図書館など6施設を集約することを公約しました。これは、これまでの市政の方向を大きく変えるもので、実現可能なのか疑問を持たざるを得ません。西岡市長は庁舎建設の全体計画を市民や議会に示さなければならないと思います。

私は約17年前、平成11年4月25日の市長選挙に当選させていただき一期目がスタートしました。

大久保慎七市長の任期満了に伴う市長選挙で私を含め4人の新人が立候補しました。多くの選挙を経験してきましたが、私自身としては最初の全市的な選挙であり、係わる人の数や仕事量の多さなどに戸惑いを感じての準備と選挙戦でした。

選挙日、投票が締め切られ開票が始まりましたが、なかなか結果が出ません。しびれを切らした事務所から自宅で待機する私に「支持者が集まり出したので、事務所に来るように」と指示が出ました。結果も分からず妻と北大通りを、負けたときの挨拶を考えながら歩いていると、小金井街道の方から数人の人が「勝った」と叫びながら走ってきました。

事務所は内外とも大勢の人でいっぱい、609票差の勝利を皆が喜んでくれるのを見て、嬉しさと責任の重さがこみ上げてきました。

小金井の場合、投票日は25日で、翌26日が市長の任期の初日でした。真夜中に大久保市長から「後は貴方に任せた」と市政のバトンタッチが行われたのです。

(2度目の市長選挙は、平成15年4月27日に行われ、すでに市長の任期が終えており、空白の1日となりました)。

日付が変わり事務所を閉めた後、若い頃からの友人であり地方政治の師でもある武蔵野市長選挙で5選を果たした土屋正忠氏の三鷹駅北口の事務所を訪ね、お互いの当選を喜び合うとともに、隣接する市長になったことや、財政豊かな武蔵野市と厳しい状況の小金井市のことなど、旧知の仲間を交えて話もはずみ、自宅に帰ったのは明け方でした。

一睡もしてなかったが緊張感からか、選挙の疲れも睡眠不足も感じず、その後長く続く、通い慣れた道を歩いての初出勤でした。

まず、当選証書を第二庁舎8階で選挙管理委員会から授与され、市長として正式にスタートしました。

そして、本庁舎前の駐車場で大勢の市民や職員の出迎えをいただき、玄関前で初登庁の挨拶をし、花束の贈呈を受け市長室に入りました。

その後、理事者や部長職で構成する庁議や管理職への挨拶を兼ねて職員向け就任の庁内放送など担当者の示すスケジュール通りの行動で、午前零時に始まり、その後16年間続く市長としての長く忙しい初日となりました。

(つづく)