走り続けた16年(6)

小金井市長選挙⑥

昭和58年1月14日付朝刊が、武蔵野市議会議員土屋正忠氏(現・衆議院議員総務副大臣)の4月の武蔵野市長選挙出馬を報じました。

土屋氏とは古くからの知人である私は、小金井市民ではあるが積極的に選挙戦を手伝わせていただくことを伝えました。選挙の手伝いはポスター貼り、ビラ配りや車の運転など、単純労務ですが選挙を身近なところで携わることができ、いい経験をさせていただきました。

相手候補は2期目に挑戦する現職の藤元政信氏であり、私は厳しい選挙だと感じていました。選挙の争点は選挙中もマスコミに大きく取り上げられた職員の4千万円の高額退職金問題になりました。両候補ともこの退職金の是非を訴えていました。

翌日開票の開票速報は、発表の度ごとに順位が入れ替わる状況でしたが土屋氏が859票の僅差で勝利し、20年に及んだ革新市政にピリオドが打たれました。

5月2日初登庁した土屋新市長の喫緊の課題は、公約に掲げた職員の退職金引き下げです。早速、自ら担当職員に指示し、改正案の作成に取組みました。そして、改正案を17日には職員労働組合に提示し連日の団体交渉が行われました。

しかし、大幅な引き下げ案であることから、なかなか妥結に至らず、自治労都本部は現地闘争本部を市役所内に設ける程の取組みでした。全国から動員され組合旗を掲げて市役所を取り囲んだ自治労組合員は2千人ともいわれ、連日、新聞、テレビなど報道関係、右翼や警備の機動隊、上空は報道取材のヘリが舞い、庁内はジグザグデモと大混乱です。ついに26日朝、職員組合はストに突入し、武蔵野市全体が大混乱となりました。

土屋市長は国民注視の中、公約である高額退職金是正のため、本人自らが連日の徹夜交渉に臨み、28日未明になってようやく労使合意を果たしました。

退職金削減の議案は6月2日の本会議で全会一致で可決されました。内容は、勧奨退職の5割増の優遇措置を廃止し、退職金支払い月数の上限を110カ月を95カ月とし、その後の削減は再度協議するというもので、翌月7月1日から施行で退職金は1千万円のカットとなりました。

私は、自民党の宣伝カーで武蔵野市議会議員の街頭演説に同行、宣伝カーが市役所駐車場に入る時は、大勢の組合員に取り囲まれ車を揺すられるなど身動きできず恐怖を感ずる程でした。市役所では自民党の控室などで待機する議員と行動をともにし、この「武蔵野ショック」の凄まじさを直接体感しました。

選挙公約を成し遂げるため、41歳の土屋市長の鬼気迫る気迫を目の当たりにし、その卓越した能力や覚悟、そして、力には屈しないその信念は並ではなく、改めて凄い人だと実感しました。これは、土光臨調、中曽根行革と並び称され、その後、全国に波及する地方行革の先陣を果たしたと、高く評価されました。

この経過等に関しては〝高額退職金是正に燃えた30日〟のサブタイトルで、武蔵野百年史編さん室が編集し、武蔵野市が発行した「武蔵野ショック」に詳しく書かれています。
(つづく)

走り続けた16年(5)

小金井市長選挙⑤

平成6年2月、閉会中の総務委員会で「小金井市の事務事業見直しに関する緊急対策決議を求める陳情書」が審査されました。この日の委員会は、小金井市政の将来にとって大きな転換となる非常に重要な委員会になりました。私は、行革に関して共通の認識を持つ小川和彦委員とともにその考え方を示し、大久保慎七市長の考えを質(ただ)しました。

質疑の中で、私は、今後15年間に約500人の職員が退職するが、補充を抑制し200人以上の職員を削減すべきとの持論を展開しました。

大久保市長は、今後10年を見ても職員の退職金を支払う自信がないとし、現業職には直接雇用(直営主義)はとらないと明言しました。また、長い経験から、やるべきことは分かっているし、庁内では行財政再建推進本部で検討しているので、行政診断の外部委託はしないと頑なに拒否してきましたが、私の、自分の身は自分では切れない、痛みを伴う行革の提案は仲間内ではできないとの主張に、この日は一転して「経営診断の実施や、事務事業の見直しを委託することも考えなければならない」との答弁を引き出しました。

外部の専門的第三者機関に委託して市の行政診断することを認めたのです。また、背水の陣で退路を断って…との覚悟を示す発言も付されました。私は喝采をあげる思いでした。市が行革へ大きく舵を切ったその日を20年以上経った今でも思い出します。

すでに予算編成は終えていましたが、市長の答弁をもとに企画調整費の委託料を要望し、予算案に721万円をねじ込みました。予算委員会等で反対の質疑もありましたが予算を可決成立させることができました。行政診断は(財)日本都市センターに618万円で委託されました。

1年後の平成7年2月に完成した小金井市を象徴する緑色の表紙の「小金井市行政診断調査報告書」は小金井市の将来への羅針盤といえるもので、市政に対する厳格な経営診断は私の期待に十分応えられるものでした。私は、この緑の表紙の冊子を「小金井市の行革のバイブル」と呼んでいます。

内容は、市が財政危機に陥った原因や、今後の課題及び改善の方策を専門的立場から明らかにしています。結論として市の規模から200人の職員が多いというもので、この200人の職員削減がその後の小金井市の大きな目標となりました。

そして4月は、大久保市長3期目の選挙です。選挙対策委員会事務局長の私は、市長と市政全般についての話し合いの中で選挙公約をまとめるのも役割です。

当時、選挙公報は500字の字数制限もあり、公約の整理をファクシミリの交換で調整するのですが、その度ごとに「200人職員削減」の文言が消えていました。最後は大久保市長の自宅に乗り込み、市民に公約し認知を得て審判を仰ぐ。そして、その民意を後ろ盾に選挙公約を実現させるということにご理解をいただきました。

大久保市長は200人の職員削減を旗印に3選を果たし、平成7年から平成14年までの間に197人の職員削減を基本とした「小金井市行財政改革大綱」を混乱の中で策定し、それに取り組みました。
(つづく)

走り続けた16年(4)

小金井市長選挙④

昭和60年3月、私は小金井市議会議員選挙に当選させていただき、地方議員としてスタートしました。その2カ月後の5月、保立晃市長は2期目となる選挙で再選を果たしました。私も選挙対策委員会の一員として、その一端を担いました。その保立市長も、昭和62年3月に突然の辞職(当欄2月11号に経過を掲載)。

自民党は市長選に大久保慎七氏を擁立しました。大久保氏は市職員、助役と豊かな経験を持つ地方自治のベテランでした。自民党が出馬を要請する1週間程前に税理士でもある大久保氏は事務所開設のため「大久保税務事務所」の看板を出したばかりでした。市長選挙には新人3人が立候補し大久保氏が当選、6代目の市長に就任しました。設置したばかりの税理士事務所の看板は黒のビニールで覆われ、その後、撤去されました。

平成3年4月の大久保市長2期目の選挙を間近に控えた平成2年12月議会に「平成3年3月に小金井市職員に支給する期末手当に関する条例の一部改正について」が提案され大混乱に陥りました。私は、本会議でも総務委員会でもこの議案には賛成できないと主張しました。その理由の第一は、財政が厳しい中で人事院等の勧告を0.1カ月上回る、年間5.45カ月(平成27年度は4.2カ月)のボーナスの支給であること。また、団体交渉は11月28日が11時間45分、29〜30日が23時間50分、3日〜5日にかけては17時間35分と23時間50分の長時間の拘束となり、市長をはじめとする交渉担当にとって反人道的問題である交渉だということ。さらに、東庁舎2階の市長室周辺に所狭しと貼られたビラも外すことができず、ストライキの実施に対し処分もできない当局の対応だからです。

この様な状況での労使合意は到底認められないというのが私の主張であり、自民党8人の会派の意見でした。結局、総務委員会で採決されず継続審査となり、議会は大混乱、最後は本会議流会(自然閉会)となり、補正予算8件は審議未了廃案となりました。

大問題に発展した本議案も、越年した3月議会で自民党の7人が賛成に回り、共産党や社会党など野党の賛成により、可決されました。

私は、対等・平等・平常の労使交渉での妥結とはいえない。また市民に理解が得られる内容でもないと、反対を貫きました。

この騒動を契機に労使関係は健全化交渉へと大きく改善されていったと思います。

自民党小金井支部の事務局長を務める与党の議員が、市長選挙直前に市長の提案する議案に反対し、議会を混乱させたことには、それなりの覚悟が必要です。私は、事務局長辞任を申し出ましたが認められず、議案に賛成するよう積極的調整に動いた保守系の長老の人たちからは、今度は辞任を翻意するようにとの働きかけになりました。さらに、大久保選挙対策委員会の事務局長を受けてほしいとの意向も受けました。

大久保市長とは、膝を交え真剣に市の将来や行革について話し合い「今回のことはお互い水に流す」と決着。結局、選対の事務局長をもお受けすることにしました。

選対の事務局長は遣り甲斐のある仕事でした。オーケストラのコンダクターの気分で全力を尽くしました。選挙結果は大久保市長が再選を果たしました。

(つづく)

走り続けた16年(2)

小金井市長選挙②

昨年12月13日に執行された小金井市長選挙で西岡真一郎氏が当選し、18日から新市長による市政がスタートしました。選挙の最大の争点は庁舎問題となりました。

西岡氏は、庁舎建設用地の蛇の目跡地に市庁舎、福祉会館、図書館など6施設を集約することを公約しました。これは、これまでの市政の方向を大きく変えるもので、実現可能なのか疑問を持たざるを得ません。西岡市長は庁舎建設の全体計画を市民や議会に示さなければならないと思います。

私は約17年前、平成11年4月25日の市長選挙に当選させていただき一期目がスタートしました。

大久保慎七市長の任期満了に伴う市長選挙で私を含め4人の新人が立候補しました。多くの選挙を経験してきましたが、私自身としては最初の全市的な選挙であり、係わる人の数や仕事量の多さなどに戸惑いを感じての準備と選挙戦でした。

選挙日、投票が締め切られ開票が始まりましたが、なかなか結果が出ません。しびれを切らした事務所から自宅で待機する私に「支持者が集まり出したので、事務所に来るように」と指示が出ました。結果も分からず妻と北大通りを、負けたときの挨拶を考えながら歩いていると、小金井街道の方から数人の人が「勝った」と叫びながら走ってきました。

事務所は内外とも大勢の人でいっぱい、609票差の勝利を皆が喜んでくれるのを見て、嬉しさと責任の重さがこみ上げてきました。

小金井の場合、投票日は25日で、翌26日が市長の任期の初日でした。真夜中に大久保市長から「後は貴方に任せた」と市政のバトンタッチが行われたのです。

(2度目の市長選挙は、平成15年4月27日に行われ、すでに市長の任期が終えており、空白の1日となりました)。

日付が変わり事務所を閉めた後、若い頃からの友人であり地方政治の師でもある武蔵野市長選挙で5選を果たした土屋正忠氏の三鷹駅北口の事務所を訪ね、お互いの当選を喜び合うとともに、隣接する市長になったことや、財政豊かな武蔵野市と厳しい状況の小金井市のことなど、旧知の仲間を交えて話もはずみ、自宅に帰ったのは明け方でした。

一睡もしてなかったが緊張感からか、選挙の疲れも睡眠不足も感じず、その後長く続く、通い慣れた道を歩いての初出勤でした。

まず、当選証書を第二庁舎8階で選挙管理委員会から授与され、市長として正式にスタートしました。

そして、本庁舎前の駐車場で大勢の市民や職員の出迎えをいただき、玄関前で初登庁の挨拶をし、花束の贈呈を受け市長室に入りました。

その後、理事者や部長職で構成する庁議や管理職への挨拶を兼ねて職員向け就任の庁内放送など担当者の示すスケジュール通りの行動で、午前零時に始まり、その後16年間続く市長としての長く忙しい初日となりました。

(つづく)

走り続けた16年(1)

小金井市長選挙①

小金井市長選挙は度々投票日が変わってきました。それは、市長が任期中に辞職することに起因します。

今回は、12月13日に執行されましたが、4年に1度とはいえ、市議会定例会や予算編成など12月の選挙は行政運営上厳しいものがあります。これは、佐藤和雄市長のごみ問題等の不適切な選挙公報などにより、ごみ処理が大混乱となり、その責任をとって辞職したことからこの時期になったものです。

小金井市は市長が任期を全うできずに辞職することが度々ありました。大久保慎七市長が3期の任期満了による退任を殊の外、喜んでいたことが思い出されます。

昭和56年2月17日、市議会は星野平寿市長の適切さを欠いた公務出張等に関し不信任案を可決しました。星野市長は自らの辞職でなく議会の解散を選択し、市議会議員選挙となりました。市議選が統一地方選挙から外れたのはここに起因します。

市議選の結果は星野市長不支持の議員が圧倒的多数となり、星野市長は2年で市長を辞職しました。これにより5月市長選挙となり保立旻氏が当選しました。これで市長選挙も統一地方選挙から外れることになりました。

その保立市長も、昭和61年12月、議員側から提出され可決された「老人入院見舞金支給条例」を再議(市長が議会の議決に意義がある場合、再度議会に議決を求めることで、議決どおり確定するには出席議員の3分の2以上の同意が必要になる)に付しました。

そのことから、議会が大混乱となり、昭和62年3月5日、1期半6年の任期で辞職しました。そのため、市長選挙は再び統一地方選挙に戻ったような形にはなっていました。

小金井市長は星野氏、保立氏、そして佐藤氏と任期途中での辞職となっており、市政運営の難しさが表れています。その度に選挙日が動くということにもなりました。かくいう私・稲葉も、再開発等まちづくりを含む一般会計予算が否決されたことから平成16年6月、「民意を問う」と一旦市長を辞職し再選挙をしたこともありました。現職市長が辞職して再選挙に当選した場合の任期は、前回の任期の残任期間となりますので選挙日が変わることはありません。

小金井市は市長選挙と市議会議員選挙がずれていることから、市政運営は4年を周期には成り難いものです。市議選により議会構成が変わり、進めてきた政策の遂行が難しくなることも度々でした。

また、投票率にも影響します。理想をいえば、統一地方選挙に合わせることですが、せめて小金井は市長と市議会議員の選挙を一緒にできないか腐心しましたが果たせませんでした。

今後、4年を周期とする安定した市政運営をしていくためには、法改正を含めて知恵を出す必要があります。
(つづく)