走り続けた16年(165)

大久保市政【施設管理⑥】

昭和62年9月定例会は、小金井市の難題である学校施設管理等が市議会で激しい議論になりました。これは、与党の私にも歓迎するものでした。それは、学校等施設管理職場は民主的職場に変える必要があり、財政的にも早急な改善が必要と感じていたからです。

この定例会での議論を踏まえ「学校施設管理に関する決議」が議員提案されました。

内容は、

『学校施設管理に関し次の事項を強く求めると共に早期解決を望む

①部課長による(学校の)宿・日直は中止し、市民の納得を得られる施設管理方法を早期に見い出すこと。②施設管理業務を適格に遂行するため、分散している施設管理係事務室を一か所に集中すること。③以上の事項を話し合う間、現職員に負担のかからない方法で対処すること。以上の事柄は当面の緊急避難であり、行政としては法を遵守する中で労使の信頼関係を一日も早く回復し、将来に禍根を残すことは厳に避け、根本的な解決を図ることを強く求める』というもので共産党を除く全議員の賛成で議決されました。

小金井市職員組合は西の京都、東の小金井と称される程強力で、委員長の朝熊(仮名)氏は、年齢給の導入、現業、非現業の賃金格差の解消。清掃、土木、施設警備、庁内清掃など革新市政のやり易さもあり、次々に現業職の直営化を実現したことから、その恩恵を受けた職員の中には信奉者も多く生れ、その権威は絶大で、市には2人の市長がいると言われ、「影の市長」とか「朝熊天皇」と呼ばれていました。

朝熊氏は市が職員採用を公募で開始して入所し、間もなく組合を再建し委員長に就き、昭和37年、年齢別最低賃金制度(年号から37協定という)で労使が合意する。これはいわゆる年齢給であり、多くの職員がその恩恵を受けたのですが、市財政を35年間に渡り蝕むことになるのです。これは、多摩各市にも拡散されました。37協定については後日詳しく報告します。

昭和38年4月、鈴木誠一市長は朝熊委員長を解雇しました。しかし、市議会での懲戒免職についての質疑に、具体的理由は示されず「業務命令違反」を繰り返すばかりであり、手続き的にも問題があったことから、組合の首切り撤回運動が続き、5年後の昭和43年4月、関綾二郎市長の時、都人事委員会の斡旋もあって、復職することになりました。これによって朝熊委員長の地位は不動のものとなり、組合は一層強固なものになるのです。

職員組合は朝熊氏の主導の下、活動はさらに過激になるが、それは、当局の力量不足も大きな要因であり、市民不在の中で朝熊委員長の要求に屈していくのであり、それを覆すための、冒頭の決議の㈪になるのです。

朝熊氏の事務室は、本庁舎前、現在の前原暫定集会施設の位置にあり、市民にも職員にも全く目に触れない場所で、本来の基準の倍くらいの広さの個室で係長の本人と、外村(仮名)職員と2人で仕事をしてました。議会の質疑の中で2人の1日の仕事量は15分程度の引き継ぎであるとの答弁には唖然としました。この2人の職員には、職員としての当然の責務を果たさせるための決議でした。

(つづく)

走り続けた16年(156)

大久保市政【市長選挙】

昭和61年12月定例会で、議員提案である「老人入院見舞金支給条例」が可決され、これを、保立旻市長は市長の拒否権ともいわれる「再議」に付したことで議会が混乱し、会期延長に次ぐ延長の末、自然閉会(流会)になったことから、翌日の昭和62年2月13日辞職願いを議長に提出し、法に基づき20日後の3月5日、任期を約2年残しての辞職となりました。辞職の理由は「与党体制の崩壊」との発言から、一部与党議員との確執も生じました。辞職願を私は見てないが、日付が書替えた形跡があったとされ、市長は「文字が滲んだので…」と口を濁していましたが、地位に恋々としない人なので前年の12月には覚悟を決めていたものと思われます。これにより、小金井市は、星野平寿市長、保立市長と二代続いて任期途中での辞職となりました。

市長辞職に伴う選挙です。先ず名乗り出たのが、リベラルな保守を標榜する政治団体「アタック21小金井」を結成し「民間の経営感覚で新しい市政を築きたい」と保守・中道に軸足を置く会社社長の梅根敏志氏が出馬を表明しました。自民党、公明党、民社党に推薦をお願いをするということでした。

自民党支部も市長候補選考委員会を立ち上げ、梅根氏を含めての人選に入りました。最初に名前の挙がった支部中枢役員の元市議は「家庭の事情で」と固辞したことから、白羽の矢が立ったのが大久保慎七前助役でした。

また、6年前の市長選挙で保立前市長に敗れた、田中二三男氏(元社会党市議)も市民派を標榜して再出馬を表明しました。

保守分裂での選挙は厳しく、再び市政の混乱を招くというのが梅根、大久保両陣営共通の認識であり一本化のための協議が進められ、大久保氏での一本化を果たしました。

大久保氏は戦後シベリア・ハバロフスクでの抑留から帰国し、シャウプ勧告に伴う税制改革で昭和24年に小金井町役場に採用されたとのことでした。

長い職員としての経験の中で、昭和27年当時の職員組合の執行委員長も経験したり、冷飯を食う長い期間もあり、労働組合からも厳しい対応を迫られることもあったようです。また、職員時代に独学で、税理士、宅地建物取引主任、不動産鑑定士などの資格も取り、助役退任後、暫くして自宅に「大久保税務事務所」を開設し、連雀通りに大きなアクリルの看板を掲げ、営業を開始して間もなく、自民党から市長選出馬の要請になりました。

支部は一本化を大々的に広報するため、大久保氏の出馬表明の記者会見に梅根氏と陣営の皆さんにも同席をお願いし、実現しました。

また、社会党と共産党の一本化は果たせず共産党は小柴作一氏を擁立し、3人での争いとなりました。

各候補者の選挙公約に大きな違いはなく、争点のない選挙になりました。

結果は大久保氏が1万4千468票、田中氏が1万2千909票と1千559票差で大久保氏が勝利しました。また、小柴氏は4千964票で、2週間前に行われた都知事選挙で共産党推薦の畑田重夫候補の7千288票に比して2千324票少ないことから、暫くの間、この2千票の行方についての風聞など取り沙汰されました。

(つづく)

走り続けた16年(145)

令和初の市長選挙⑦

選挙における公約は、当選後に行うべき政策を公報等で有権者に約束するものです。

平成27年12月の西岡真一郎市長の選挙公約は総花的で「庁舎、福祉会館、図書館等6施設の集約は67億円で、新たな市民負担はない」との公約は就任早々から変更の繰り返しで、議会では多くの時間がこれに費やされるなどし、結局、公約は反古になり、4年が過ぎてしまいました。

また、西岡市長のその公報には「小金井市の閉塞感は財政難からであり、その理由は行財政改革が進展しないことにある」と私の市長としての16年を厳しく断じています。しかし市議会で「この16年の間に915人の職員を671人と244の減、約99億円の人件費は59億円と40億円の減、32%だった人件費比率は15%まで下がっているが、西岡市長の認識は選挙公報の通りか」との議員の質問に「職員数、人件費、人件費比率も大きく改善され、武蔵小金井駅南口のまちづくりの進展など、長年の課題を乗り越えてきたのは事実でございます」と、選挙公報とは全く逆の答弁になりました。この評価の落差は何なのでしょうか。

また、昨年12月の市長選の選挙公報では、前回の選挙の総花的公約とは対照的に、今後4年間の小金井市の進むべき道筋を示すこともない極めて珍しい公約になっています。

その選挙公報のリード文の「平成4(1992)年に120億円で土地を購入するも27年間動かなかった庁舎問題。この長年の課題を、西岡市政でやっと解決しました」とありますが、これは事実に即していないと指摘させていただきます。

それは、120億円の土地購入の80億円が借金で、バブル経済崩壊やリーマンショックの中でも、20年の歳月を要して完済しました。さらに、その間にも庁舎建設基金(預金)の積立てや、庁舎建設の基本構想及び基本計画を作成するなど、27年間動かなかったというのは事実に反します。

逆に「西岡市政でやっと解決しました」については、選挙とはいえ言い過ぎではないでしょうか。議会の主導で基本設計に入ったもので、この完成後に実施設計を作成し、その後に工事に入るもので「西岡市政で解決」と、選挙で市民に広報することには疑問を持たざるを得ません。

公報の「西岡真一郎の実績」として特養老人ホームの新設や武蔵小金井駅南口第二地区再開発、また、都内で初となる新設の認定保育園の開園などは、長い年月の経過の基で既に道筋が付けられていたものです。また、「子育て予算30億円以上の増額」も、国や都の保育政策による補助金の増額やそれに耐え得る財政によるものであり、自らの「実績」とするのはいかがなものかと思われます。

現職市長として、市民の審判を受けるに当たっての判断材料となる情報提供は事実を歪曲せず伝えなければならないと思うのです。作為的な選挙公約で、事実が語られることなく選挙戦が行われたのは残念です。

小金井市の抱えていた財政再建、まちづくり、庁舎やごみ問題等の諸課題の解決には、長年に渡り私とともに汗を流し、身を切る努力をしてきた職員や議員のためにも真実を伝えていかなければならないと考えています。

(つづく)

走り続けた16年(143)

令和初の市長選挙⑤

前回に続いて、昨年12月の市長選挙での西岡真一郎市長の選挙公報の『平成4(1992)年に約120億円で土地を購入するも、27年間動かなかった庁舎問題。この長年の課題を、西岡市政でやっと解決しました』について『27年間動かなかった』については事実ではない、と前号で指摘させていただきました。今回は後段の『西岡市政で解決しました』について、どうだったか検証します。

前回平成27年12月の市長選挙の選挙公約は「蛇の目跡地に庁舎、福祉会館、図書館等6施設を集約し、改修費&維持管理費を節減して、新たな財源にする。それは、67億円で新たな市民負担はない」というものです。

この選挙公約の最大のポイントは図書館を入れたことです。

図書館は市民要望の強い施設で、中央図書館建設に期待する声は非常に大きいものがあり、有権者の気持ちを捕らえるには格好の選挙公約でした。しかし、財政的には到底無理であるとの判断から、他の候補者は公約に掲げませんでした。

選挙後、市議会で要職を務め、別の候補者を推していた元議員のN氏が「選挙公報を見て、あ〜やられたと思った」と言っていたのが印象的でした。

就任した西岡市長は当選間もない平成28年1月の市議会で、6施設複合化は直近の民意であり、これを果たすのが私の使命です、と公約の実現を力強く宣言しています。

しかし、3月に市長は庁内に「6施設複合化プロジェクトチーム」(PT)を設置し、自らの選挙公約の実現の可能性について検証に入りました。本来、実現できることを公約するもので不確実なものを公約すること自体問題です。

その検証中にも関わらず5月には6施設一括整備は困難とし、図書館等を除く4施設の先行整備を「揺るぎない方針とする」とし、当選を果たして半年も経たないうちに超目玉公約の図書館は消滅してしまいました。

8月末、職員によるPTの報告書は「事業の推進に当たっては他の行政需要とのバランス等を勘案の上、総合的に判断されていくべきものと考える」との事実上不可能との指摘となりました。

さらに、10月にはその「揺るぎない方針」も「新庁舎の建設はゼロベースで見直すことを決断し、今後、市民・議会・行政が一体となって進むべき方向を定める」と大きく揺らぐ考えを表明しました。しかし、市長は「公約の撤回ではない」と主張しますが、これは公約の白紙撤回と解すべきと思われます。

また、平成30年11月の市民説明会で「67億円については、建設費だけであってその他の設計費用等は含まれていないことから、現段階で想定している総事業費約90億円と乖離が生じています。市議会をはじめ、多くの市民の皆様に誤解を与えかねない表現であったものと、お詫び申し上げます」と発言していますが、これは図書館の建設費40〜50億円を含まないものであり、これを加えれば選挙公約の67億円の倍以上になり「もし、誤解を与えるような表現だったら申し訳ない」という市民説明会での発言で済むような問題ではないと思われます。「新たな市民負担はない」には何と弁解するか。

(つづく)

走り続けた16年(142)

令和初の市長選挙④

昨年12月の市長選挙での選挙広報に、西岡真一郎市長は『平成4(1992)年に約120億円で土地を購入するも、27年間動かなかった庁舎問題。この長年の課題を、西岡市政でやっと解決しました』と高らかに謳っていますが、これは事実か否か検証してみます。

平成3年12月に小金井市土地開発公社が蛇の目ミシン工場跡地を市の要請により先行取得しました。これを翌年9月に市が、なけなしの基金(預金)40億円を頭金に、80億円は借金で買取りました。

平成5年度から借金の返済です。元金は均等払で約4億6千万円、利子は年々減額ですが初年度は前年も含め3億6千万円で、計8億2千万円でした。

直後にバブル経済の崩壊です。バブル期に借金で購入した土地代をバブル崩壊後の大幅な税収減の中での返済は厳しいものです。

平成7年度決算で人件費が104億円となり、財政の弾力性を示す経常収支比率は107%で全国664市の中でワースト1位。その後、財政再建団体に陥った北海道夕張市をも下回る財政状況でした。平成8年度は更に悪化し、ついに平成9年度は職員の退職金の支払いもできず、全国に例のない退職金を借金で賄うことになり、蛇の目跡地の借金の返済も不能となり、元金は据置きで利子の約1億円のみの返済となりました。

大久保慎七市長最後の平成10年度は一般会計の赤字の顕在化を防ぐため、特別会計への繰出しを止めました。そのため特別会計は赤字となり、翌年度の歳入を繰り上げて充用する事態になりました。

私が市長に就任した平成11年4月、特に目的を定めず積み立てた財政調整基金が70万7千円、退職手当基金が36万4千円、そして、庁舎建設基金は44万8千円と異常な状況でした。その上、蛇の目跡地の借金の残債が51億円もあるのです。私は借金の返済期間を平成23年まで5年間延長し、元金の返済額を3億5千万に減額し、返済を再開しました。

平成16年度には第二庁舎賃貸契約更新で生じた契約差金の3千万円を議会意志に応え、苦しい時でしたが庁舎建設のための基金の積立を開始しました。

その後に来たのは、平成20年9月のリーマンショックでした。これは、国は勿論、小金井市の財政にも大きな影響を与えました。しかし、借金の返済と基金の積立は苦しい中でも継続しました。

借金の完済も近付いたことで、平成22年度には、多くの市民参加による新庁舎建設基本構想策定市民検討委員会を作り、市民1万人アンケートや市民フォーラムの意見を参考に『新庁舎建設基本構想』を策定しました。

平成23年度、20年かけた借金完済です。

続いて、平成24年度は『小金井市新庁舎建設基本計画』を作成。さらに平成26年3月、『小金井市新庁舎建設基本設計』の予算の可決と、庁舎問題は着々と前進したのです。

それが、平成26年度は東日本大震災の復旧・復興や東京オリパラの建設ラッシュとが重なり建設費が30%以上も暴騰するなどから、基本設計の予算は執行せず、私の任期が終えることになりました。

以上が苦難の中での庁舎問題の進展です。『27年間動かなかった』というのが事実と違うことを指摘します。

(つづく)