走り続けた16年(92)

市制施行周年事業①【60周年】

本年、小金井市が昭和33年10月1日、人口約4万人で市制を施行し60周年の大きな節目を迎えました。

そこで、市は、10月7日(日)「小金井市市制施行60週年記念式典」を小金井宮地楽器ホール(市民交流センター)で開催します。式典は西岡真一郎市長の式辞、五十嵐京子議長の挨拶、そして、来賓の挨拶となります。

その後、小金井市のまちづくりの発展や、専門的職業に従事し後進の指導育成等、市民生活の向上に尽力された方々に市民功労者、技能功労者等の表彰が行われます。

また、名誉市民に選定された作家の黒井千次氏と政治学者の毛里和子氏に名誉市民証の贈呈が行われ、市民に披露されます。

この60周年の目玉は「小金井市歌」の制定ではないでしょうか。7日の式典の中で発表予定のようです。「市歌」については、市民から募集した「ふるさと小金井」に寄せる思いを基に、専門家により制作されます。10年前の50周年の時にも市歌の作成を考え、小金井市初の名誉市民になられた作詞家の星野哲郎さんにお願いする予定でしたが体調を崩されたことにより断念した経緯があります。

近隣市など多くの市に「市歌」があり、その自治体によって違いはありますが、歌う機会が少なく、「東京都歌」のように埋もれてしまわないよう、小金井市歌については多くの市民に歌ってもらうことを願います。

本年は60年を冠(かんむり)にした事業が数多く行われます。子どもたちをはじめ市民の皆様には、身近で行われる事業に参加し、記憶に残る60周年となるよう盛り上げていただきたいと思います。

7日にはNHKラジオで放送されている「巡回ラジオ体操」が都立小金井公園江戸東京たてもの園前広場で午前6時から6時40分まで開催され、全国に6時30分から生放送されます。市民の皆様!!会場か、ご自宅のラジオの前で健康のため体操に参加しましょう。60周年を契機に、お近くの会場やご自宅で健康寿命延伸のためにもラジオ体操をしましょう。市内6か所の会場で毎日ラジオ体操が行われています。私はウオーキングの合間に毎日場所を変えてラジオ体操をしています。

本年が設立の節目の年になる団体がたくさんあります。小金井市体育協会は70周年、小金井市社会福祉協議会は60周年などです。

また、小金井市が唯一、友好都市盟約を結ぶ三宅村との盟約締結も40周年になります。昭和53年10月1日の市制施行20周年の記念式典で、両自治体の首長の署名により締結されました。

これは、昭和44年、三宅村が小金井小次郎によって築造された「小次郎井戸」の周辺にサクラを植樹するに当って、市や市民が協力した返礼として、昭和51年三宅村からアジサイが贈られ、それを、東京都みどりの監視員が、玉川上水堤等に植樹したことから盟約締結に発展しました。

長い間、小金井三宅島友好協会による民間外交で三宅村との友好の絆が紡がれてきました。その40周年を記念して武蔵小金井駅南口の交通広場に三宅島紹介の銘板を設置します。お披露目は7日の「記念式典」の終了後、宮地楽器ホール北側の設置場所で行います。

(つづく)

走り続けた16年(91)

今、市政で何が【副市長人事不同意】

平成30年小金井市議会(定数24)第3回定例会が8月30日に招集され、まず人事案件先議で開会されました。

まず任期満了に伴う大熊雅士教育長の再任議案が上程され4人の退席はありましたが、反対もなく全会一致で同意されました。

続いて、上程された副市長人事案は、7月末、2人いた副市長のうち、西岡真一郎市長が特に「最適任者」と称して再登板した上原秀則副市長が病気療養を理由に退任したため、8月29日、元・市部長の男性六三を後任に充てるという議案を議会に送付したものです。本会議で数名の議員からの質疑があった後、議長が採決を宣言すると、13人の議員が続々と退席し、地方自治法の市議会の会議成立に必要な定足数の12人を欠き議会は採決不能となりました。五十嵐京子議長は会議を成立させるため退席議員に議場に入ることを求めましたが、それに応ずることなくその日の本会議は流会になりました。

議員が市長の人事案件に反対の意思表示には、その理由と決断が必要です。まして、それが不同意の方向となればさらに慎重になります。そのため、退席は西岡市長に議案の撤回を含めて再考を促したものと思われます。しかし、新聞報道には「市長は『31日以降の採決に応じるよう理解を求める。』という」とあり撤回の意思は全くありませんでした。

翌31日は前日の続きで、全員が議場に入り本会議が再開されました。直ちに副市長の人事案件の採決となり、結果、賛成10反対13で不同意となりました。

西岡市長は不同意になることが分かっていながら撤回せず、採決を求めたのはなぜなのか分かりません。何とかなると安易に考えたのか、外部からの圧力などで撤回できなかったか。撤回するより、否決した議会の責にすることなのか、その真意が計り知れません。

小金井市議会で副市長人事は勿論、人事案件の否決は私の記憶にありません。

職員は庁内の人事には敏感です。特に、副市長人事が内部からの場合、職員は特に関心を持ちます。それは、自分たち事務方のトップに立つ人を決めることであり、長く職員として勤務したことで、その性格など人柄、能力や業績、仕事への取り組み、また、どの様な活動をしてきたか、管理職なら誰でも知ってるからです。今回の議会の判断を職員がどう考えているかです。

私も16年間市長として副市長、教育委員、監査委員や固定資産評価審査委員など、多くの人事案を自らの責任で提案してきました。それは、提案者の管理能力が問われる一面もあるからです。それでも、その都度各会派・各議員に採択の対応を聞き、可決されることが完全であることを確認しての提案でした。

人事案件は理由なき賛成はあっても、理由なき反対はありません。個人の名前が晒され評価されることを考えれば、「市長の人事案の提案の仕方に丁寧さが足りない」との議会の指摘に尽きるのかも知れません。

私の市長時代に、管理職になり部長を務めた人物だけに思いは複雑です。

(つづく)

走り続けた16年(88)

私の戦争体験 満州からの引揚げ③

私は、南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員を父に終戦の前年、昭和19年11月に満州で生れ、翌20年の4月、父がソビエトとの国境の牡丹江省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就いたことから、この街に移り住みました。

昭和20年8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄して国境を越えてソ連軍は私たちの住むスイフンガ市に侵攻しました。

父は砲弾の音の響く真夜中、母に逃げる準備をするようにと伝え出社した。いったん午前3時頃に帰宅し、夜が明けたら満鉄社員の家族が逃げる列車を出すので、母と私はそれに乗って逃げることを告げられた。父は会社のため死を覚悟して残ることを決めたのです。その時、父は28歳、母は24歳、私は8か月であった。

前号に続き、母の手記である『追憶(その2)』の「ソビエトの参戦」の項の一部を原文のまま続けます。

「思いも掛けぬ突然のソビエトの参戦によって戸惑った。ソビエトとは不可侵条約が結ばれて居ったという事で油断があった。

彼は背中にリュックを背負い、リュックの上に毛布を巻いて載せ用意した洗濯用のバケツの中に食器類を入れたもの1ケ、当座の食料の包み1ケ、皆私が一人で持てる範囲のものであった。私は孝彦を背負った。そして、地下足袋を履き防空頭巾を被った。もう二人は話す言葉がなかった。暫くして彼は言った『孝彦は生まれてこなければ良かったね。それでも父親より母親と一緒の方がいいだろう。誰に聞かれても見られても見苦しい死にかただけはしない様にしてくれ、そして逃げられる所まで逃げなさいよ』。ただそれだけであった。私は『死ぬなら一緒でいいでしょう、一緒に行動しましょう』と言ったが彼は許さなかった。

三人で我が家を出ようとしたとき、日の丸の飛行機が何機か低空を飛んでいるのを見た。それは戦うためのものではなく、私達と同じ様に将校の家族が避難するため飛び立ちであった。時をおいて落ちる爆弾の中を潜りながら駅に着いた。

列車の回りは泣くもの嘆くもの、何人もの泣く子を引っ張る母親、障害のある大きな娘さんを背負う母親、それはそれは惨めな日本人の姿であった。彼も私も別々の気持ちで死を覚悟した。彼には果たさなければならない使命があった。

彼は抱いていた孝彦を私に渡し『二人とも日本には帰れないだろうが、最後まで諦めないように。あなたは孝彦より先に死ぬことのないように』それが最後の言葉になった。

私は抱いている孝彦を彼の方に向け『またお会いできますよね』と言うと、彼は黙ってうなずいた。

私達は列車に乗った。そして、彼は、この列車の出発を指示するためその場を離れた。列車の窓には爆撃を避けるためガラス窓を締め、カーテンをおろし、その上に腰掛けが立てられていて再び彼を見ることはできなかった。

列車は間もなく何処に行くという宛先もなくスイフンガを去った。

私達を乗せた列車は男の方は機関士の方を含めて3〜4人、後は全部婦女子であった。」

(つづく)

走り続けた16年(87)

私の戦争体験 満州からの引揚げ②

私は、父が南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員だったことから、終戦前年の昭和19年11月満州で生れました。昭和20年の4月、父がソビエトとの国境の街、牡丹紅省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就いたことから、この街に移りました。

昭和20年8月9日、父と離別しての母との逃避行、そして終戦、その後、約1年の奉天(現・瀋陽)での難民生活、そして21年7月葫蘆島(コロトウ)からの引揚げなど、当時の満州のことを知るため、市長を退任して時間的余裕が出来たことから厚生省や関係機関、自治体等が発行した引揚げに関する出版物を取り寄せ、また、この8月を前に、母の手記である『追憶(その2)』に目を通しました。母の手記はかなり前に書かれたもので、母が妻に贈ったものです。私も読むよう勧められていましたが、意味もなく母が亡くなってから読むつもりでした。しかし、ここで読みました。それは、原稿用紙に手書きで328ページに及ぶもので、その目次の中の「ソビエトの参戦」という項目の一部を原文のまま抜き出してみます。

「昭和20年8月8日、彼はいつもの様に夕食をすませ、常会があると言う事で出かけられた。そして10時頃帰られ休んだ。其の時の集会の内容は何であったかは忘れてしまったが、いずれにしても緊迫した事態であることの会合に違いなかった。寝て1時間位経ったと思う時間、ズシンという物凄い大きな音に、私は驚いて目が覚めた。彼も同じであった。音は時をおいて又あった。私は驚きで腰が立たなくなってしまった。彼はアメリカ軍の空襲かもしれないと言った。二人共暫く沈黙のままであった。その音は又しても続いた。とにかく家を出る用意をしておく様にと言い残して会社に行かれてしまった。私は立たない足を引きずりながら、ローソクの光が外に漏れないように囲い御飯を炊き、おむつの洗濯をしたり、子供に着物を着替えさせたりして居った。

『奥さんどうする』お隣りの奥さんは泣きながら入ってこられた。その声も追い詰められた瞬間のものであった。相変わらず音は時をおいて続いた。はっきり爆弾であることが分かった。私は子供があるので泣いてなど居られなかった。『奥さん逃げる用意をしなさい』私は言った。お隣りの奥さんは防空壕に入ろうと言う。『そんな悠長な事はしていられないわよ』私は言う。兎に角に家が壊れてしまいそうな音が又する。お隣りの奥さんと三人私は孝彦を抱いて厚いドアとドアの間に立ちすくんだ。

夜明けの3時頃、彼は爆撃の間をぬって会社より帰られた。この時の彼の顔の色は蒼白であった。この爆撃はソビエトの参戦である事を彼に知らされた。『もう一時も早く逃げることだ』と彼は言った。夜の明けるのを待って満鉄社員の家族を乗せて列車を出すことになった。もう日本より持ってきた嫁入り衣装は何も入らなかった。おむつ、木綿の下着、着替え2〜3着、野宿の時の用意に毛布1枚、少々の食料、医薬品、ちり紙類、預金通帳、印鑑、手持ちの現金は全部持たせてくれた。彼が独身時代に使ったという飯盒、母の形見で作った絽のワンピース1枚、地下足袋も新しいのを履いていきなさいと言ってくれた。簡単な食器類も用意した。」

(つづく)

走り続けた16年(86)

私の戦争体験 満州からの引揚げ①

7月5日に発生した西日本豪雨は、多くの市町村に想定外の猛威をふるい甚大な被害をもたらしました。また、過去に例をみない全国的な猛暑など、連続する異常気象は世界的傾向で地球全体に大きな影響を与えています。

我々の豊かで快適な生活が自然環境に大きな負荷を与えていることも一因ではないかと思われます。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い被災地の復興を願います。

今年も猛暑の8月を迎え、平和の尊さについて考える月でありたいと思います。

73年前の昭和20年8月は、6日広島、そして、9日は長崎に原爆が投下され、15日に終戦となり、日本が建国以来の激動の時でありました。その8月を今年も迎えました。

先の大戦の終結から73年が経過し、今、戦後生まれの人口が総人口の80%以上を占めるようになり、戦争体験のある人が減り、戦争の悲惨さが過去のものとなり次第に風化されてしまうことに危惧を感じています。

日本が敗戦の廃墟の中から立上がり、この平和と繁栄を築き物質的豊かさが享受できたのは、日本人の勤勉さや人間性、また、日本を取り巻く国際環境に恵まれたことと、先の大戦で犠牲になった英霊が礎にあることも忘れてはなりません。

私自身の平和について考える時、昭和20年8月9日のソ連の参戦が原点になります。当時、生後9か月の私と家族の戦争体験に触れてみたいと思います。

私は、昭和19年11月、父親が南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員だったことから、満州牡丹江省(現・黒竜江省)の穆稜(ムーリン)で、布施孝彦として生まれました。

父は、伯父(母の兄)の旧制中学の同級生で、卒業後、昭和10年銚子市役所に入所し、派遣で来ていた技術系の上司が銚子での任務を終え、満鉄に異動したことに伴い父も後を追って満鉄に転職し、満州に母を呼び寄せることになりました。

その後、父が満鉄の助役の試験に合格したことから、昭和20年4月牡丹江省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就任しました。スイフンガ駅はロシアとの国境の大きなターミナル駅で、父は大きな夢を持ち、やりがいある仕事に精力的に取り組んでいたとのことです。

私は市長に就任して3年目の平成13年8月、ムーリンの自分の生まれた満鉄の社宅と、父と別れたスイフンガ市を訪ねました。

ムーリンは典型的な中国の田舎町でしたが、スイフンガは風光明媚でヨーロッパを連想させる街づくりで、ロシアのリゾート地となっていました。そのスイフンガ市の中心部からロシア(旧ソ連)国境までの距離は約28キロメートルと至近の距離にありました。

日本とソ連との間には昭和16年4月から、昭和21年までの5年間の日ソ中立条約が締結されていました。しかし、ソ連はその条約を一方的に破棄し、有効期限内である昭和20年8月9日未明、対日参戦し、ソ連軍は国境を突破しスイフンガ市に砲撃を開始しました。

このソ連の参戦により、平穏で恵まれた私の家庭は、一瞬にして引き裂かれ、荒海に放り出されました。

(つづく)