走り続けた16年(255)

革新市政のガバナンス

私が小金井市に転入して来たのは昭和48年9月で革新市政の真っ直中、市役所の中では信じられない驚くようなことが続々と起こっていたことを後で知ることになります。

昭和49年3月、1年を通して最も重要な定例会が行われている14日、本会議開会のコールがあり、議長や議員、そして、職員も席に着いているのに市長が現れず議会が開けない状況でした。原因は何と、警備員の正職化を求める組合員により市長が市長室に軟禁状態だったからなのです。

また、昭和49年8月7日の第4回臨時会で永利市長は議員の質問に「5月27日午前9時頃、東庁舎入口で市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ足蹴りで左足に打撲を受け全治3週間の診断を受けたのは事実です」と答弁。さらに、「労使慣行の正常化と本人の生活権と将来を考え(法的)手続きはしない」と答弁しています。

警備職員の正職化を求めて、一部職員は暴力を使ってでも要求を通そうとするのです。これに対し市長は報復を恐れてか、不問に付すのです。考えられない対応です。その後、警備員は正規職員として採用され37協定(年齢給)の恩恵に浴することになります。

さらに、49年夏、一般職及び管理職の人事異動を、一般職は7月10日、管理職については7月15日の予定が調整に手間取り、結局27日に同時発令となりました。それも、市役所内で辞令を渡すのでなく、市長の自宅に呼んでの交付です。また、対象の部課長には、深夜から28日未明にかけて市長と助役が自宅を訪ねて辞令を手渡すという全く考えられない異常な手法で辞令が交付されたのです。

それは、この人事異動に不満を持つ職員組合が辞令撤回の猛烈な反対運動を扇動し、庁内を大混乱に陥らせていたからです。

職員組合の過激な行動で市長自身が登庁できないという混乱の状況も起こりました。

市長は当然人事権は市長の専権事項であり組合の要求を拒否するが、革新市長と組合の対立は続き、辞令をもらった部課長は身動きが取れず、日常業務にも支障が出てくる始末でした。その結果、この辞令も組合の不当な要求に屈服し、8月10日管理職の異動を全面撤回する始末でした。

さらに、革新市政2回目がスタートして間もない昭和50年7月、夏のボーナス交渉が難航してることから組合は保育園、学校給食、浄水場を除く全職員に「一斉半日休暇」の実力行使を指示しました。これに対して市長は「業務に支障を来すので一斉休暇は認めず拒否するように」と41人の課長に命じました。しかし、全課長が市長の業務命令に背き、組合の意向に従い半日休暇を与えるのでした。

この異常な状況は、多くの真面目な職員のモチベーションにも影響を与え、人件費は増えるが、勤労意欲は減退し、市民には踏んだり蹴ったりでした。

市長は市民に選ばれた市民の代表です。選ばれた者の誇りと責任を持つのは当然です。私人の永利氏なら判断は別ですが、公人である市長が不法な暴力に屈することは到底許されません。まして、市長が職員からの暴力で行政がねじ曲げられることは想定外で、絶対に許されません。

革新市政の2期8年は全くガバナンスが働かなかったのです。

(つづく)

走り続けた16年(254)

革新市政の過ち

昭和46年4月25日、全国統一地方選挙が各地で行われました。小金井市の市長選挙は保守系無所属の現職、関綾二郎市長に社共統一候補の永利友喜前市議の保革一騎打ちとなりました。その前段に行われていた都知事選挙は美濃部都知事が、小金井市においても相手候補の倍以上を得票する大勝で再選を果たしていました。その余勢を駆って革新候補の永利候補が勝利し、小金井市三代目市長に就任しました。また、同時に行われた市議会議員選挙でも保守系の当選が12名と、はじめて過半数割れとなり、社会党6名、共産党5名、公明党2名、社民党1名と革新系候補が躍進し、与野党は別として市長も議会も保革逆転の形になりました。

この結果、市政は激しく揺れ動き、大きな変化を来すことになりました。この統一地方選挙は革新のブームとなり、中央線沿線市においても、革新市長が多く誕生しました。

この選挙には、実力行使で数々の要求を強引に押し通してきた市職員組合も重大な関心を示していただけに、その結果に満足したのは言うまでもありません。また、選挙結果に示されたように、都市化による人口急増で市民意識にも大きな変化が生じてきました。

私は、この革新市政の8年間は取り返しのつかない失政を侵したと思っています。しかし、政策判断は市長の決定ですが、その決定には議会の同意が必要であり議会の責任も重いと言わざるを得ません。市長も議員も民主的手続きによる選挙で選ばれたものであり、最後のツケが市民に回ってくるということもやむを得ないことになるのでしょう。

革新行政は直営主義で、市の業務は市の正規職員で行うことを基本としています。そのため、ごみやし尿を収集する多摩清掃公社、学校等警備員、学童交通指導員(緑のおばさん)、庁内清掃、電話交換、ボイラーマンと次々に直営化し、関市長の最後の昭和45年は人口9万2千337人で、職員は662人だったのが永利市長最後の53年は人口9万9千22人と約7%増に対し、職員は1千130人と約1・7倍に膨れ上がりました。これにより、一般会計に占める人件費比率は昭和50年代の10年間で全国600を越える市の中でワーストを8回、2位3位を各1回記録することになるのです。

この間の損失は計り知れない金額になります。そのため、近隣市と比較するまでもなく都市基盤整備の遅れや文化施設、スポーツ施設、教育施設など公共施設の不足はここに起因します。

人件費問題の解決は一朝一夕に片付くものではありません。そのため、一時の過ちが取り返しの付かない大きな損失となります。

一例を挙げれば警備員問題です。

学校警備は古くは若手の教員が宿日直でしていたものを、日教組の運動で自治体の業務となり、臨時の職員や警備会社に委託して行っていました。

小金井市では48年10月、1施設3名の準職員の体制としましたが52年4月1日、市議会で職員の定数条例の可決を経て警備員96名が正職化されました。

学校警備のシフトは1日働いて2日休みとなり、勤務時間は夕方に出勤し、深夜から早朝までは仮眠時間、翌朝、教頭等に引き継いで勤務終了です、これに、一人分の給与が支給されていたのです。

(つづく)

走り続けた16年(250)

職員組合M前委員長 復職!!

小金井市が市制施行後の昭和36年1月に再結成された職員組合は当局との対立が激しく賃金改正や「年齢給」の導入などに、組合は職場集会、超過勤務や休日勤務の拒否、一斉休暇などの実力行使を武器に次々に要求を通していきました。

この様な状況の中、当局は昭和38年4月組合のM委員長を懲戒免職に付しました。市議会でこの件に関しての質問に対し鈴木誠一市長は、組合活動や賃上げ交渉とは別問題で、あくまで業務命令違反であるとし、処分に不満であれば都の人事委員会等に審判を求めることができる、との答弁に終始しました。また、この処分に当たっての弁明の機会も完全ではなく、組合側に付け入る隙を与えることになりました。

M氏は請求期限の6月に「不利益処分取り消し」を都人事委員会に審査請求を行いました。審査には自治労関係の弁護団等が代理人となり4年を越える審査となり、毎回多くの市職員が傍聴する中で行われました。

この懲戒免職処分の結末を先に申し上げれば、4年後の昭和42年の統一地方選挙で鈴木誠一市長が引退し、後継者として出馬した助役の関綾二郎氏が当選を果たしました。

懲戒免職に対する都人事委員会での審理は続いていましたが、関市長は組合に対し前市長とは異なる協調姿勢を示し、人事委員会の裁定を待つのでなく、話し合いでの解決に転じました。それは、M氏の復職につながるものでした。美濃部都政になり委員の大幅変更のあった都人事委員会も斡旋の方向で動き出し、関市長と自治労都本部の協議の末、昭和43年4月M氏に、「昭和38年4月10日付けの免職処分を10月9日までの6か月間の停職処分に改める」という内容の辞令が交付されたのです。5年間の闘いは組合側の要求が完全に達成される結果になったのです。

これにより、組合の団結はさらに強固になり、M氏は執行委員長に返り咲き、その後、四半世紀にわたり「影の市長」と称される程の権力を誇示し、小金井市政に大きな影響を及ぼすことになりました。しかし、強権的な組合運営は内部からの批判となり昭和59年をもって委員長の座から降り、M体制は終えましたが、その存在感はその後も続きました。

話を昭和38年に戻します。職員組合のM委員長の免職以来、市長と組合や革新系市議との対立は一層激化しました。6月に入り、市は「小金井市役所庁舎管理規則」を制定することを模索しました。それは、「庁舎の秩序維持管理上市長が必要と判断すれば、市長はその者の庁舎立ち入りを制限し、退去命令を出せる」とするもので、公共目的以外のビラやポスター、立て看板などの持ち込みも制限することから、組合と真っ向からの対決になりました。

この規則の制定の裏には懲戒免職にした職員が、かつての自分の机に着き読書を続け、さらに、庁内を闊歩してることから、これを規制しようと考えたものと思われます。

庁舎管理規則の制定は議会の議決や組合の合意も不要で、市長の判断でできるものを、議会で議論になったことから制定を諦めることになりました。これにより、M氏は誰にとがめられることなく、かつての職場に自由に出入りすることが継続されるのです。

(つづく)

走り続けた16年(246)

幻の三七(さんなな)協定を追認

昭和36年1月に再結成された小金井市職員組合は自治労による第一次賃金闘争で成果を上げ、さらに翌年の第二次においても年齢別最低賃金を保証する覚え書で合意しました。これが、昭和37年3月6日であったことから「37協定」と呼ばれました。それは、組合側にとっては大勝利となるものでした。これで、小金井市の職員の給料は学歴や職歴、職務・職階に関係なく年齢が同じであれば同一の給料になるというものでした。関綾二郎助役や労務担当は鈴木誠一市長を説得できるとの判断で組合と合意しましたが、市長はこれを了とせず覚え書に署名・捺印をしなかったとのことです。しかも、その覚え書自体が市役所に不存在です。そのため「幻の37協定」とも言われました。

この覚え書に沿った形の給与改定により、ほとんどの職員が大幅な昇給対象となり、特に現業職員は2倍以上になる職員も出る等、財政負担があまりにも大きくなることから、単年度での対応は不可能で当局が組合に3年後の昭和39年までの制度完成の延伸を申し出る始末でした。

この年齢給の導入で永年奉職していた職員と入所して数年でも年齢が同じであれば同一であるし、例えば、入所し10年20年地道に勤めてきた職員が、入所し数年でも年齢が上であれば大幅な昇給で追い越されることに不満はあったが、組合にものが言える状況はなく大きな声になることはありませんでした。

地方公務員法第24条1項では『職員の給与はその職務と責任に応ずるものでなければならない』と明記されています。すなわち、年齢給は法律に反するものなのです。

強力な職員組合の反撃を恐れてか、当局は法に反するような組合の行動にも穏便な対応をすることが、さらに組合運動を過激化させることになりました。

市長が合意することの無かった覚え書の下3月17日に起案された「職員の給与に関する条例の一部を改正する条例の制定について」が3月12日に開会していた3月定例会に54号の議案番号で議会に送付されました。

議会において、この「給与改正の条例」については特段の質疑もなく可決されました。その中で、保立旻議員が一般質問の中で、給与改定の交渉について質しています。

保立議員は、交渉が次第に尖鋭化し、勤務時間内に食い込む職場大会や抜き打ちの5割休暇闘争、理事者を夜の3時半近くまでの軟禁状態での団体交渉は地方公務員法上違法となり、人権問題にもなる不法行為には厳しく対応すべきだ、との質問に対し、関助役からは、市長は非常に気を悪くしていると思います、との発言があり、違法行為についての対応は、非常に腰抜けでだらしないとご指摘があるかもしれません。また、違法が認められましたが処分をすることは差し控えたのでございます、との答弁になりました。助役は組合とは対決姿勢でなく信頼関係を構築したいとの思いから譲歩してきたようですが、逆にそれが労使交渉をさらに激しくし、全職場挙げての超過勤務拒否や団体交渉の場に大勢の職員が加わる集団交渉に発展して市長を追及するという状況にもなりました。

ついに昭和38年4月10日、市長に職員組合K執行委員長に解雇の辞令を発しました。

(つづく)

走り続けた16年(237)

新市長に白井亨氏

西岡真一郎市長の突然の辞職による市長選挙と市議会議員補欠選挙が11月27日投開票され、市長には白井亨氏が、市議補選の2議席は河野麻美氏と高木章成氏が当選しました。

市長選の白井氏の得票は2万7千251票で、共産党推薦の小泉民未嗣候補の7千1票とは大差となりました。

問題は、白井、小泉の両候補とも革新系であり選挙公約に大きな違いがないことから、盛り上がりに欠ける選挙になったことです。

また、自民党が候補を擁立することができなかったことで、選択肢が限定されたこともあり、投票率が34・25%で前回の市長選を5ポイントも下回り過去最低を記録し、無効票も2千票を上回ってしまいました。これは、西岡市政を支えてきた与党議員や支援者も積極的に参加できる状況になかったことも一因と思われます。

自民党にとっては市長奪還の絶好のチャンスであり、市議会議員等からの立候補が期待されましたが果たせませんでした。

一方、保守系と目される候補者出馬の動きもありましたが、告示日直前に体調不良で立候補を断念したことから革新系同士の戦いとなってしまいました。結局、政党に属さない白井氏に保守票が流れる結果となりました。

また、定数2議席の市議会議員補欠選挙は市長選に候補を擁しない自民党推薦の河野氏が1万5千926票で当選し、2議席目は市議会単独会派の3議員が推す高木氏が9千301票で当選しました。白井氏のグループ「小金井をおもしろくする会」に属する永鳥太郎氏が9千267票と34票差で苦杯を嘗めました。

市議補選の河野氏は告示の1週間前に出馬を決意し、そこから事務所の開設、ポスターの写真撮影と制作、選挙車の準備、政策のとりまとめ、立候補の手続き、5歳と3歳の男児の母としては超多忙なスケジュールの中での選挙となりました。短い準備期間で、市長候補と共闘できないにも係わらず約1万6千票は大善戦であり、この1万6千票は市長選では白井氏に投じられたと思われます。それは、同じグループ「小金井をおもしろくする会」に属しながら、市議補選の9千票と市長選の2万7千票との差にあります。市議補選トップの河野票に永鳥氏の票を加えると、ほぼ白井氏の票に近いものになり、自民党は市議補選で存在感を示し、面目を保ったということになります。

前市長が議会の議決を経ず専決処分した保育園の廃園問題は、議会の不承認にもかかわらず現在も廃園に向けた事務作業が進んでいます。白井市長は専決処分前の状態に戻して廃園の事務作業を止める条例改正案を市議会に提出する考えを示していました。職員は市政トップの言動に翻弄されています。

白井新市長は就任初日の28日の記者会見で選挙戦の公約に掲げた市立保育園廃園計画の撤回や新庁舎建設問題について、具体的な日時は示さず、「市議会などと各種調整をしてタイミングをみる」と述べるに止まった、と報じられました。議会を知る新市長としては慎重なスタートを切ったようです。

新市長には保育園の廃園問題、新庁舎建設計画や都市計画道路の建設問題など諸課題が待ち受けています。

市民の期待に応え、安定的に発展する市政が期待されます。

(つづく)