走り続けた16年(33)


苦闘する庁舎問題④

平成6年2月、10年の契約で業務を開始した市役所第二庁舎の賃貸借契約は平成15年末をもって契約期間が満了することから、市は三菱信託銀行と更新に向けての協議を8月から行ってきました。

バブル経済の崩壊により価格の下落が進んでいたこともあり、急ぐことはなく期限の4か月前から交渉を本格化させました。

契約更新の内容は賃料と契約期間に絞っての交渉になりました。

賃料については不動産鑑定の結果を踏まえ、市の不動産価格審査会を経て12%強の減額となりました。また、駐車場や共益費(施設警備、清掃業務等)も減額での合意となりました。

難航したのは更新期間でした。

相手方の信託銀行は10年を主張し、市は、平成16年1月1日から20年末までの5年間とすることに固執しました。厳しい交渉の結果、私たちの主張が貫ぬかれました。

それは、武蔵小金井駅南口再開発の第2地区に庁舎を建設する計画があったからです。

平成11年4月の市長選挙で当選した私の選挙公約のひとつが「JR中央線の高架化と駅周辺の整備」でした。

新宿から八王子の間で最も駅周辺の整備が遅れているのが武蔵小金井と東小金井の両駅であり、市民生活に大きな支障があることや市外から知人が来た時に待ち合わせの場所も駅前広場もなく、恥ずかしいとの声を耳にする度、議員の時から肩身の狭い思いでした。何としても整備を果たしたいとの考えが選挙公約になりました。

しかし、再開発は従前からの計画での実施は不可能でした。

市議会特別委員会からは、実現可能な計画を早急に立てるようにとの議員の強い要望を受け、私は翌、平成12年3月議会に「武蔵小金井駅南地区市街地再開発事業に係る市の方針(案)」として、新たな再開発計画を議会に示しました。

その特徴は、再開発も新庁舎建設も単独での事業の実現が無理なことから、再開発区域に庁舎を含めて事業を推進し、再開発第2地区に完成した市庁舎を、都市基盤整備公団の割賦償還制度を活用して平成20年度に取得し、リース庁舎を解消するというものでした。厳しい議論が連日のように続きました。

市役所の位置の変更には、市議会議員の特別多数(3分の2以上)の同意が必要です。

平成12年6月市議会に市民から、再開発に合わせて市庁舎を建設する陳情と、あくまで蛇の目工場跡地への市庁舎の建設を求める陳情が提出されました。

議会の採決では、23人の議員の内16人(3分の2強)の議員が再開発区域への市庁舎建設に賛成し、反対は7名でした。蛇の目跡地に関してはこの真逆の採決結果でした。

これを受け委員長から「各委員の意見を踏まえ、市長の判断で対応していただきたい」の言質をいただき、私は直ちにこの計画から「案」を取って「市の方針」とし、都市基盤整備公団に再開発の施行依頼をしました。

そのため、リース庁舎の契約更新期間を平成20年までの5年間にこだわったのです。

(つづく)

走り続けた16年(25)


市制施行五十八年

昭和33年10月1日、小金井市が市制を施行し、58年を迎えました。明後年は60年、人でいえば還暦です。

小金井市がこれまでに発展できたのは、JR中央線等地理的条件や恵まれた自然環境、そして市民の力、さらに議会や行政の努力によるものと思います。その間には、大きな課題に直面することも多々ありましたが、それらも改善され発展を続けてきました。

市制施行の数年前、小金井町は近隣各市・町との合併の動きがいろいろある中で、国分寺町、小平町と3町合併促進協議会を結成し協議を進めてきました。しかし、協議が整わず昭和31年3月に解散となりました。

自治体の合併は多くの困難が伴います。隣接であったとしても文化や風習、交通圏や生活圏の違いもあり、協議が整っても合併後の市の名称で壊れることもあります。当時の鈴木誠一町長も町会議員も本心は単独での市制施行を意図していたようです。

当時の地方自治法では市制昇格の人口要件は5万人以上でしたが、改正前の3万人程度で市制を施行しているところもあり、必ずしも統一基準となっていない状況でした。それを踏まえ、人口3万人台の小金井町も市制施行へと動き出したのです。

昭和31年夏、全国の市制施行を目指す町へ、地方自治法改正の運動の呼び掛けがあり、翌年2月、国会に法改正を働きかけることになりました。東京での参加自治体は小金井町だけであり、東京は関係機関との連絡が取りやすいこと等から鈴木町長が中心的役割を果たすことになりました。

鈴木町長を先頭に58町の強力な運動の展開で、各・地元国会議員の協力もあり昭和33年4月、地方自治法の一部改正が成立し、該当する62町は同年9月30日までに市制施行の申請ができるようになりました。

しかし、東京都は小金井の市への昇格は時期尚早だとし、理解を得るのに大変苦労したようでした。鈴木さんの後日談ですが、都が「市名は小金井市ですか」と聞くので「東京市だ」と答えたら担当は大変驚き、それだけは止めて欲しい、と言っていたそうです。

昭和12年2月1日小金井村から町になったことから、当時、町制20周年記念事業と市制施行への活動が同時に行われていたようです。

昭和33年10月1日、いよいよ東京で10番目の市として小金井市が呱呱(ここ)の声をあげたのです。市民の喜びも大変大きく、5日間にわたって全市をあげて記念祝賀行事が繰り広げられたようです。

初代市長は鈴木誠一氏で、市勢は世帯数9771、人口4万947人、職員数は177人。年間予算額は1億4815万円、市民一人当たり3692円でした。

時は過ぎて、平成20年は市制施行50年でした。私は、市民の記憶に残る1年とするための事業を考えていました。市制50年記念事業等に関しては、後日、当欄で報告します。

(つづく)

走り続けた16年(24)


「今、市政で何が…」

西岡真一郎市長が誕生し9か月が過ぎますが、ボタンの掛け違いのままで、事態が推移しているように感じられます。

昨年12月の市長選挙、最大の争点は庁舎問題でした。

西岡市長の選挙公約は、蛇の目跡地に総合庁舎、福祉会館、そして、図書館等の6施設を複合化するというものでした。図書館は市民要望が非常に高く、有権者の気持を捕らえるには格好の選挙公約なのです。

しかし、6施設の複合化に係る建設工事費は67億円で、新たな市民負担は生じないとすることに、疑念を抱く市民も多くいました。

西岡市長は、庁内に「6施設複合化プロジェクト・チーム」(PT)を設置し、自らの選挙公約の検証に入りました。本来、自らが検証して公約とするものです。そうでなければ、実現が不可能でも公約となり、無責任に言ったもの勝ちになってしまいます。職員に公約を検証させること自体にも問題があります。

その後、市長は検証中にも係わらず6施設の公約を撤回し、図書館等を除く4施設に変更することを議会で表明しています。

8月31日、PTの最終報告書が議会に示され、「6施設複合化には109億円の財源を必要とする」というもので、選挙のときに示された財源計画とは大きな隔たりが生じています。また、PTの調査、検討には選挙時の資料の提供や、市長の具体的な対応もなかったようで、市長の意志の入らない報告書となっています。

本来、市長がPTに積極的に加わり自らの責任で作成しなければ、それは、職員の単なる自主研修・勉強会の域を出ず、その研究成果の発表の報告書になってしまうのではないかと危惧します。

報告書の最後に「事業の推進に当たっては他の行政需要とのバランス等を勘案の上、総合的に判断されていくべきものと考える」との指摘は的確であり、これが検証の集約になるのでしょう。

最終報告書に対する議会での質疑の中で、「市長公約の6施設複合化は、でたらめの空想に過ぎないと言っても過言でなく、まさに『詐欺同然』と市民から指摘されても仕方ない」との議員の発言がありましたが、市長からも他の議員からも発言の撤回を求める声すら出ず、最後に市長の「いただいたご質問とご意見と、市民の声を合わせ、しっかりと庁舎問題等の解決に取り組んでいく所存でございます。本日は誠にありがとうございました」は、形式的に用意された挨拶文であったとしても、「詐欺」という言葉になぜ反論しないのか、私には考えられません。

今、早急になすべきは、清掃関連施設の整備も含めた6施設の財政計画と建設スケジュールです。それが示されなければ羅針盤も航海図も持たずに荒海に出港するようなもので、議会も市民も判断が難しいのではないでしょうか。

来年2月に次の契約更新の判断が求められる第二庁舎や新福祉会館の今後の対応、旧福祉会館の借地料と地上権の取扱いの問題など、課題を先送りせず早急な対応が必要だと思われます。

(つづく)

走り続けた16年(8)


財政健全化への闘い①

平成11年4月26日市長としてスタートして間もない5月中旬、東京都総務局行政部の幹部職員5〜6人が来庁されました。

その際、言いにくそうに出た言葉は、「当選して間もないところで申し上げるのは心苦しいが」と前置きし、「小金井市の財政は極めて厳しい、このままでは自治体としての存続すら危ぶまれる」との言葉でした。財政の厳しさは議員として十分理解していたことなので特に驚くことではありませんでした。私は「行政改革を進めるなど財政健全化に向け全力で取り組みますので、東京都においても特段のご指導ご支援をお願いしたい」と申し上げ、都の協力を取り付けました。今でもその光景は忘れられません。

市長としての任期が続くことにより、その間、都の職員も部長、局長、副知事と昇進し、小金井市の要望を叶えられる役職となったとき、その人脈を十分に活用させていただきました。

私が市長に就く以前、平成6、7年度の決算では、財政の弾力性を示す経常収支比率は全国660数市の中でワースト1位。その後、財政再建団体に陥ったあの北海道夕張市をも下回る比率でした。

その平成7年度決算では、経常収支比率107%、人件費は約104億円で一般会計に占める割合は33・8%であり、多摩27市の平均は21・4%でしたので、単純にこの率を小金井市の予算に当てはめれば38億円が過剰であるということです。これは、この年度だけではなく過去から長く続いてきたことでした。

平成8年度も状況は変わらず、翌9年度はついに定年退職者の退職金が払えず、全国で初めて退職手当債(借金)6億5千万円を発行して退職金を支払うという状況に陥りました。また、普通退職者も予算不足により退職金が払えないため、年度を跨いで新年度4月の退職をお願いすることもありました。

また、バブル経済の崩壊による税収減の中で、社会保障費の歳出は増え続け極めて厳しい財政状況が続いていました。

冒頭に申し上げた、都職員の来庁はこの様な財政状況からであり、これを改善するには職員数の削減や給与の適正化等人件費をはじめ行財政改革を強力に進めることでした。
(つづく)

「今、市政で何が」

小金井市議会は、3月28日深夜の本会議で総額402億円の平成28年度一般会計予算案を採決し、民主党会派2人の賛成、その他8会派21人全員の反対により否決となりました。西岡真一郎市長は、4、5月の2カ月の暫定予算を提案し議会は可決しました。

予算否決の背景は、西岡市長の選挙公約の核となった庁舎、新福祉会館等6施設を蛇の目ミシン跡地に集約することについて、全体計画、完成までのスケジュール、そして、財源計画等の目途が示されないことに起因するものと思われます。今後、市長自身による具体的な計画を早急に市民や議会に示す必要があると思います。

走り続けた16年(3)


小金井市長選挙③

昨年暮れの市長選挙とともに市議会議員の補欠選挙が行われました。

これは、市長選挙に立候補を予定する2人の市議が辞職したことによるもので、市議会に欠員がある場合は市長選挙の際に補充することになります。

地方自治体に議員定数は各自治体の条例により定めるとされていますが、小金井市は町の時代から26人と定めていました。

小金井市議会は、平成8年に欠員が1名あったこともあり、条例を26人から25人に改正し平成9年の選挙から適用しました。これは小金井市が町の時代から初めての条例改正でした。その後、平成9年6月に提出された〔市議会議員の定数削減を求める請願書〕が採択されています。

これは、議員定数を20人まで選挙ごとに減員するという内容で、平成10年9月本会議で採択されており、まさにこれが議会意思でした。

平成11年4月に行われた市長選挙でも市議補選がありました。すでに生じていた欠員と市長選出馬のための辞職の2議席で、私の市議辞職の時期によって3議席になるものでしたが、私の議席は補選をせず欠員のままでいくことにしました。それは、平成10年12月、議員提案で定数削減の条例が提案されましたが採決されないまま継続審査になっていたからです。ここで私の辞職が早まれば補欠選挙になり定数削減が遠のくとの判断から補欠選挙にならない期間での辞職にしました。

その結果、11年6月に条例が改正され、平成13年の選挙から現在の24人の議員定数になりました。

今回の市長選挙でも現職議員の出馬があれば、定数を減らすチャンスだと思っていました。議員が市長選の届出をして失職となれば補欠選挙にはならず欠員になります。
しかし、市議会が選挙前の11月開催になったため選挙準備の必要から早めの辞職となり、補選になりました。議会に欠員があれば定数削減の引き金になると思っていたのですが。(つづく)

市政の現状も見てみよう。

「今、市政で何が」

西岡市長は就任後初提案の学童保育の補正予算を撤回しました。そのため、行財政改革でもあり、辛く厳しく苦しみの中で成し得た学童保育の民間委託による運営は一瞬にして直営に後戻りとなりました。全く理解できず非常に残念です。『建設は死闘、しかし破壊は一瞬』です。

また、24人中21人の市議から「新福祉会館建設について市長の方針を明らかにすることを求める申し入れ」が提出され、全員協議会の開催となりました。「選挙公約」であり選挙戦の最大の争点となった「公共施設の集約」に対し、福祉会館の建設は緊急を要するものと判断しての申し入れと思われますが、市長からは自身の「選挙公約」にかかる明快な議会答弁はなく、今後、「選挙公約」を行政内部で検証するとの発言にとどまるものでした。それなら「選挙公約」とは一体何なのかと考えさせられてしまいますが、2月22日に招集される第1回定例会でその辺が明らかにされるものと思われます。