走り続けた16年(266)

連続流会 魔の12月議会

保立旻市長2期目、昭和60年6月のスタート早々職員組合の欠員補充要求に屈し、辞職覚悟で5名の現業職員を採用。これにより安定多数の与党体制にひびが入り、大久保慎七助役が十月末「与党との問題ではない」と言いつつ辞職。12月定例会中の12日、選任された新助役の市川正氏の初登庁は、後日小金井警察が市長室に現場検証に入るほどの大荒れの中での就任だった。

この定例会は混乱による会期延長の24日午後5時、時間延長を諮る本会議に出席議員が定足数に達せず、議案や市民の請願・陳情27件を審議未了廃案となる流会(自然閉会)で終わった。議会の混乱で市長がとばっちりを受けた。市議9か月の私にはこの混乱を収める術なく流れに流される残念な結果だった。

年が開けた2月5日流会を治癒する臨時会の冒頭、正副議長が流会の責任を取り辞任、鈴木一雄議長は再選、副議長に村野静司議員が新たに選任された。流会で審議未了廃案となった補正予算3件等を可決・承認し、請願・陳情9件を採択、2件を継続審査とし、流会による課題は解消したが、混迷の市議会で正・副議長を自民党が独占することに一抹の不安を感じた。

昭和61年12月1日、長年の悲願だった粗大・不燃ごみ中間処理施設が貫井北町1丁目に難産の末、地元の理解で完成した。この施設は日の出町の谷戸沢最終処分場の延命のため埋立てごみを細かく破砕する施設ですが、処分場を構成する25市2町でこの施設を持たないのは小金井市だけであり、公害防止協定に反するが特例として構成市・町の温情で搬入が許可されていた。

小金井市は昭和30年代のし尿処理は村山町(武蔵村山市)の砂利の採掘後の穴に投棄。不燃ごみは55年当時は羽村町(羽村市)の同様の穴に投棄していた。58年4月からの日の出町谷戸沢への投入に中間処理場の稼働で安堵した。その後も日の出町の二つ塚処分場の建設でも問題を引き起こした。また、二枚橋焼却場で調布市や府中市に、二枚橋閉鎖後は多摩各市・町の協力をいただきました。小金井市の歴史を考えるとき多摩各市・町には迷惑を掛け、お世話になったと感謝です。

61年9月定例会に与党の一部を含んで「老人入院見舞金の支給に関する条例の制定」が議員提案されました。その内容は一定所得以下の70歳以上が対象で入院期間が7日から30日までに5千円、それ以上の場合は1万5千円を支給するもので、市長は「私の政策的見地と相入れない」との発言でした。国も都も違法性があると指摘した制度で、多摩地区での導入は町田市だけで年間の財政負担は約400万円でした。18日の厚生文教委員会で可決されたが本会議で、なお慎重な審議が必要との動議が可決され委員会への再付託となった。

その「老人入院見舞金条例」が12月定例会で可決されたが市長が再議に付したため議会は紛糾。延々と会期の延長を繰り返し、翌年の2月12日時間延長の本会議に与党の自民、公明、民社の14議員のボイコットで定員数26人の過半数に1人足りず時間切れの流会で議会は終えた。そのため、老人入院見舞金支給条例をはじめ議案、請願・陳情の計51件が審議未了廃案となった。流会後、市長から自民党議員に「辞職を考える」と伝えられた。

「再議」とは、市長が議会の議決に意義がある時、再度議会に議決を求めるもので、この場合、議決通り確定するには出席議員の過半数でなく3分の2以上の同意が必要となる、市長の拒否権である。

(つづく)

走り続けた16年(263)

ごみ問題 苦難の保立市政

昭和56年6月、市長に就いた保立旻氏が当面する課題のひとつはごみ処理問題でした。

不燃ごみを細かく破砕する中間処理施設を持たない小金井市は、集積場に集めた不燃ごみから缶やビン、乾電池等の有害物質は手作業で取り除き、ロードローラーで潰した物をショベルカーでダンプカーに積まれ羽村町(羽村市)の埋立場に運ぶ方法で「小金井市は空気を運んでくる」と批判されていた。この処分場は3年の計画で多摩9市で運営されており、59年4月以降は他の場所を確保する必要に迫られていた。

58年9月12日、羽村町側から突然搬入停止が通告された。理由は「小金井市のごみの中に有害物質が含まれているのではないか」との一小金井市議会議員の問題提起からです。市長は、開会中の市議会を休会にした議長と搬入再開に奔走。毎日出るごみの処分ができないのは、市にとっては最悪です。有害物の混入はありえないが、市長と議会はこの疑義に対し羽村町に謝罪文を提出するなどし事態収拾を図った。羽村町の調査結果からも、有害物の混入の事実が確認できなかったことで、20日井上篤太郎羽村町長名で搬入再開許可の通知が届きました。搬入停止は約10日間で済みました。

58年4月、本市を含む多摩25市2町による新たな焼却灰など不燃ごみの埋立地となる日の出町谷戸沢最終処分場が完成し埋立てが開始された。しかし、処分場延命のため不燃ごみの投入には地元との公害防止協定に基づき金属等再資源化の可能なごみは除去し、かつ、15㎝以下に破砕し圧縮しての搬入が義務付けられました。そのため本市は基準に合うごみは谷戸沢処分場に搬入するが、それ以外は羽村町の埋立場への搬入を継続しました。

当時、選別、破砕のための中間処理場を持たないのは小金井市だけであり、早急な建設に迫られていました。

市は不燃ごみ積替場のある貫井北町1丁目を候補地に周辺用地を取得するが地元の理解が得られず足踏み状態が続いていた。その理由は騒音等公害に対する不安と集会場等地元還元施設の建設の約束を反故にしていたこと、事前に地元に説明が無かったことで地元が硬化していたのです。そのため2年連続して国の建設費の補助金を見送ってました。

羽村町処分場の使用期間が終えたことから全量日の出町谷戸沢処分場に搬入するが、小金井市の埋め立てごみは公害防止協定を守れないが中間処理場ができるまで特別に搬入させて貰うことで危機を脱したのです。

当局は危機的な状況を地元団体に理解してもらうため熱心な交渉の結果、地元との合意に到りました。後は時間との闘いです。

一方、調布市、府中市と本市の可燃ごみを焼却する二枚橋焼却場の老朽化から、59年2月建て替え計画を策定し、順調に進むかと思われたが、任期満了に伴う市議選直前の最後の議会となる60年2月13日「老朽化した二枚橋焼却施設を建て替えるについては、他の場所に『第2工場』を建設することを付帯条件とする」との決議を全会一致で議決したのです。この決議が、その後の小金井市のごみ行政に大きな影響を与えることになりました。

保立市長の1期目の四年間は危機的状況に直面するごみ処理に翻弄されていました。

(つづく)

走り続けた16年(262)

難問山積の保立市政

昭和56年6月、星野平寿前市長の残した武蔵小金井駅南口駐輪場用地問題で、土地所有者の明け渡し請求に、市は仮処分で対抗し、さらに、保立旻市長就任最初の決断は、議会の議決を得て土地所有者を被告に裁判を起こすことでした。保立市長、大久保慎七助役には辛い判断でしたが、これは、長い間禍根として残りました。

保立市長にとっても最大の課題は財政の健全化でした。それは、全国ワーストを続けている人件費比率の改善です。そのため職員に欠員が生じても不補充を徹底しました。

また、星野市長が昭和54年9月定例会で条例設置した小金井市行財政対策審議会(行対審)に行革に関する諮問していたが、市長が変わったことから、新市長がやりやすいようにと2年の任期を4か月程残して全員が辞任した。毎回、大混乱にも係わらず10回も開かれた行対審、結局答申を出せず解散したのは残念でした。

昭和44年4月中央線荻窪〜三鷹間高架複々線化が完成、それを受けて多摩地域の各市は6月三鷹・立川間立体化複々線促進協議会(複促協)を発足させた。しかし、この高架化は小金井市が最大のメリットと思われたが何故か本市は未加入。その11年後の55年4月になって小金井市も複促協に加入しました。

都は建設省と国鉄の建国協定による都市側の負担金を沿線市にも負担させる方針で、本市の負担は83億円と試算され、保立市長は小金井市の財政状況では無理との考えでした。

市議会も、高架事業は国と都が負担すべきで、地元負担ゼロの主張でした。そのため、高架化事業は進まず足踏み状態が続き、特別快速の停車駅に決まっていた武蔵小金井駅を外して国分寺駅に先行されてしまいました。

積極的推進の土屋正忠武蔵野市長(当時)は沿線各市が了解していることから、保立市長に「負担金なので了解しといて行き詰まったら東京都に考えさせたら」とのアドバイスも保立市長を説得することにはなりませんでした。土屋氏は「保立さんは真面目だからなあ」との感想でした。

小金井市が地元負担を了解したのは大久保市政になってからの平成2年3月定例会に中央線高架化に必要な資金を積み立てるための「鉄道線増立体化整備基金条例」を制定したことで沿線6市の足並みが揃ったのです。

ごみ問題も顕在化しました。市は昭和55年から3年間羽村町(現・羽村市)の埋立処分場に不燃ごみを投入していたが、選別、破砕、切断する中間処理場がないことから地元の批判が出ていた。そのような中、58年9月13日施設周辺の住民代表で構成される廃棄物埋立地周辺環境保全連絡協議会(保全協)から搬入停止を通告された。理由は、小金井市が有害物質の乾電池、鏡、蛍光灯、体温計等を、そのまま埋め立てているというのです。それは、公害問題に取り組む一小金井市議会議員が保全協に、小金井市では有害物質を投棄しているのではないか、との発言からで、市は議会とともに、その事実はないが羽村町に謝罪文を提出するなどし事態収拾を図った。20日羽村町長名で搬入を再開することの許可が届き、一段落となったが市議会には課題が残った。

また、粗大不燃ごみの中間処理施設建設は待ったなしとなった。

(つづく)

走り続けた16年(73)

西岡市政、折り返し点を経て④

西岡真一郎氏市長が市長に就任し、僅か1週間で10%の職員の地域手当を3年で15%にアップすることを職員組合と合意しました。人事院の勧告は2年で完成させるというものでしたが、組合との合意内容は平成27年度は12%への引上げで6千100万円、28年度は14%で1億2千800万円、3度目の29年度は15%で1億6千100万円の給与の引上げとなるもので3年での完成です。

このための原資は勿論市民の血税です。急を要する支出であっても、市民サービスへの財政支出なら理解もできるのですが、選挙を終えて市長に就任し、予算編成等超多忙な1週間での職員給与の大幅な引上げの決定は理解に苦しみます。市民との対話を重視するという西岡市長、その市民や議員が気付く前に、労使で合意し調印しました。市長にはその権限が与えられていますが、これが西岡市政の「真の行政改革」なのでしょうか。

平成30年第一回定例会が平成30年2月21日に開会されました。この定例会は西岡真一郎市長の施政方針が示されるとともに、平成30年度の一般会計予算や特別会計予算が審議される、1年で最も重要な議会になります。

西岡市長は、任期の折り返し点を過ぎた本定例会の施政方針で、市庁舎や福祉会館、そして図書館等6施設複合化の選挙公約を4施設に、そして、ゼロベースで見直す、と変えたことについて、市民への丁寧な説明が期待されましたが果たされませんでした。

昨年9月の第三回定例会での決算特別委員会では、多くの議員が選挙公約の変遷について質しました。しかし、答弁の言葉はきれいで力強いのですが、質問にまともに答えることなく、議員も市民も納得できる内容にはなりませんでした。

選挙で市民に約束した6施設複合化のプランすら示さず、公約の変遷を市民に説明することも避けるなら、選挙で市民は何を基準に投票したのかです。

平成23年4月の市長選挙で私は落選しました。当選した佐藤和雄市長は、ごみ問題に関する選挙公約での市政混乱の責任をとって、約半年で辞職し再度の選挙になりました。

12月の市長選挙に立候補を決意した私に、民主党小金井支部は「ごみ問題解決のため苦渋の決断」として支援を機関決定しました。自民党、公明党推薦の私への支援は、重く厳しい決断ですが、ごみ問題を解決し、市民生活を守るためには止むを得ないと判断したものでした。そこで民主党小金井支部長の西岡氏(現市長)から署名を求められた文書は「小金井市長選挙に関する合意事項」として、①、政策合意に関しては、今般の選挙戦の最大の争点であるゴミ問題への取り組みに絞ることとし、他の政策課題等については是々非々で臨む。②、ゴミ処理問題への取り組みについては、平成25年3月までに実現可能なゴミ処理に向けての一定の方針を市民に示し、平成25年内の早い時期に最終的な処理方法を確立する。この取り組みに関し、職を賭して取り組むことを公約として明言する、という内容です。この合意内容は民主党のビラになり市内全域に配布されました。

社民党小金井支部とも同様の内容で合意しての支援でしたが「職を賭して」の文言はありませんでした。

市長選挙に当選し、職を賭してのごみ問題解決への取り組みは、平成24年4月、日野市長へ、日野市クリーンセンターの建て替えに当たって、小金井市との可燃ごみの共同処理することを申し入れました。平成24年11月30日、日野市長が可燃ごみ処理施設の建て替えについて国分寺市、小金井市と共同化することを決定し、日野市議会へ報告しました。平成25年3月13日、3市で可燃ごみの広域化を進める、とした覚書を3市長で締結。6月8・9日、3市長が出席し、クリーンセンターごみ処理施設の建て替えと広域化について地元で説明会を開催し、一定のご理解をいただきました。これで、民主党小金井支部との合意事項、さらに、選挙公約を果たすことができました。これは、様々な場面で、職員の並々ならぬ努力と、議員の協力のお陰でした。そして、平成27年12月17日、ごみ問題等を解決し、私の市長としての任期は終わました。

(つづく)

走り続けた16年(55)

苦闘する庁舎問題㉑

一昨年12月の市長選挙で当選した西岡真一郎市長は新庁舎等の建設問題について、選挙公報で「蛇の目跡地に6施設を集約して改修費&維持管理費を削減し、新たな市民サービスの財源にします。」と公約しています。

「6施設とは本庁舎、第二庁舎、本町暫定庁舎、福祉会館、前原暫定集会施設、そして図書館の6施設を集約して建設する」というもので、建設は、67億円で完成でき、新たな市民負担はなく、財政問題と切り離してできるというものでした。6施設といっても実質は、庁舎、福祉会館そして、図書館ということになります。

就任した西岡市長は1月の初議会で「6施設複合化は直近の民意であり、市長選挙に掲げた政策をご信任いただいた以上、それを果たすことが何より重要なことで、私に与えられた使命であり、何としても果たしたい。」と公約の実現を力強く宣言しました。

しかし、5月にはその公約や発言を撤回し、図書館等を除いた「4施設の早期実現を優先することを、私の揺るぎない方針とする。」と議会で明言しました。さらに、その4か月後の10月には「ゼロベースで見直すことを決断し、今後、市民、議会、行政が一体となって、進む方向を定めます。」に変わりました。

その都度、発言の「言葉」は美しく力強いのですが、度重なる変更に、これが責任ある、誇りの持てる市政といえるのか疑問を持たざるを得ません。

公約の変遷について、市民に丁寧に説明する必要があるのではないでしょうか。

子どもたちが「選挙と政治」について学ぶ時、この様な選挙公約の変遷は教育上どのように教えられるのかも気になるところです。

現在、新庁舎と新福祉会館についての議論は進んでいるようですが、選挙公約の大きな目玉であった図書館の建設のスケジュール等、計画の具体化が全く見えません。期待の大きさから、これも早急に示す必要があるのではないでしょうか。

平成23年4月、佐藤和雄市長が市長に就任し、最初の定例会で選挙公約にある、「ごみ処理4年間で20億円のムダ使い」と主張した件や市民交流センターの取得について質疑が集中し、佐藤市長は公約の変更をしました。

定例会後、「民主党・社民クラブNEWS」が「平成23年第2回定例会(6月議会)報告号」として発行されました。その報告号では、「民主党・社民クラブは、佐藤市政の提唱する子育タウン・環境先進自治体(エコタウン)を目指す方向性は支持できますし、いたずらに市長と対立し、市民不在の不毛な争いを続け、市政を混乱させるつもりはありません。しかし、選挙公約は重要であり、就任して間もないにもかかわらず安易に変更するのは、市民有権者を愚弄した行為であると主張します。」と佐藤市長を厳しく批判しています。

私は、佐藤市長のムダ使いの選挙公約変更に対する、民主党・社民クラブの議員の主張は一定の見識であると思います。ただ、それは、誰が市長であっても同じことが言えるかが問われることになります。

(つづく)