走り続けた16年(216)

小金井市長選挙

大久保慎七市長が引退を決めた小金井市長選挙は平成11年4月25日に執行され、民主党代表菅直人氏の公設第一秘書で事務局長の久保田俊二氏四七が民主党の推薦で、共産党市議会議員8期の大鳥竜男氏六〇が共産党推薦で、また、無所属の鈴木敏文氏七四と自民、公明、自由党推薦の私稲葉孝彦五四の4人の新人が無所属での争いとなりました。

小金井市の課題は危機的状況の財政問題であり、遅れている中央線の高架化と駅周辺の整備や介護保険の導入などで、各候補とも共通認識でも、大鳥氏は共産党の主張で、鈴木氏は独自の選挙戦で、久保田氏と稲葉は大きな争点はなく、後は組織力と候補者の実行力が問われることになります。誰が勝っても少数与党という議会構成で、厳しい議会対応が強いられることになります。

久保田氏は、民主党代表であり地元衆院議員の菅直人氏や小金井市選出の藤川隆則都議会議員の支援を受けました。久保田氏は神奈川県座間市議を3期務めた後、厚木市での市長選や県議選に落選し、地元では次の衆院選出馬が取り沙汰されていたようです。

一方、自民党は低迷を繰り返し、私が市議会初当選の昭和60年は10人の同志でしたが、平成元年は8人、5年は6人、そして、9年は4人と選挙の度ごとに2人ずつ減らすという状況で組織力の低下が指摘されてました。

しかし、この市長選挙は議員を中心に自民党、公明党の組織がフル回転で運動を盛り上げてくれました。元々自民党員の私に公明党の支援は力強いものがあり、その後の中央線の高架化や駅周辺の整備、財政再建、ごみ問題の解決など、市長としての16年間も変わらない自民党、公明党の支援が課題解決に繋がったとの思いです。

選挙戦を通して、小金井街道と北大通りの交差点に面する建築中のマンションの最上階に不審な人影が連日目撃されていました。その場所は、私たちの選挙事務所と相手方の選挙事務所の双方を見るに最適の位置で、警察官ではないかと話されていました。投票日に投票箱が閉まった後、何が起こるのか、と話してました。その結果は、相手方の運動員募集のチラシが警視庁の目に入り、電話作戦の運動員に報酬を支払った選挙違反で、事務所に警察が入る結末となりました。

選挙の結果は、稲葉1万4209、久保田候補が1万3600、大鳥候補が6868、鈴木候補が2334。激しい選挙戦は僅か609票の僅差の結着でした。選挙事務所では大勢の支援者の人々と、万歳で喜びを分かち合いました。

当選が確定し日付が変わる12時、大久保慎七市長の任期が終え、「後は任せた」と笑顔での引継ぎになりました。一般的には市長選挙は任期前に余裕をもって行われるのですが「地方公共団体の議会の議員及び長の任期満了による選挙の期日等の臨時的特例に関する法律」により統一地方選挙の期日に合わせての選挙となります。統一地方選挙で当選した市長の任期は5月1日から始まるのが常ですが、小金井市長の任期は4月26日、投票日の翌日から始まります。

一段落の後、武蔵野市長選で5選を果たした土屋正忠氏の三鷹駅北口の事務所を訪ねお互いの当選を祝福し合い、話は時間を忘れて続きました。

(つづく)

走り続けた16年(193)

街づくりの挑戦 中央線高架

中央線は明治22年私鉄の甲武鉄道により敷設されました。当初の計画は甲州街道沿いの路線だったようです。しかし、計画路線区域の理解が得られにくいことから、新宿から立川を直線で結んだ線に変えたとのことです。その線が小金井村の真ん中を南北に二分する位置になりました。

小金井市の街づくりが進まなかったのは財政難と中央線の線路と道路との平面交差に原因がありました。

小金井市にとって中央線の恩恵は計り知れません。それは、都心への利便性などにより大きく発展できた要因でもあります。一方、多摩地域の通勤・通学者等の急増により、過密な列車ダイヤにより「開かずの踏切り」の発生となりました。

昭和44年に中央線荻窪駅から三鷹駅までの高架が完成し、次は三鷹から立川までとの期待が膨らみました。中央線は多摩地域の背骨であり大動脈でもあります。そのため、立川以西の自治体にとっても輸送力増強につながる中央線の高架に期待が高まりました。特に小金井市においては中央線が市域を南北に二分し、朝晩のラッシュ時は踏切りが開かず、特に武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切りの遮断機が上がるのは1時間で1分間前後であり、「開かずの踏切り」の呼称は全国にその名を馳せていました。

三鷹までの高架が完成したことから、同年立川以西も含み、多摩全域の20市3町1村の参加により「三鷹—立川間立体化複々線促進協議会」(複促協)が設立されました。しかし、この高架化により最も恩恵を受けると思われる小金井市はこれに参加しませんでした。それは、複促協に加入することにより国鉄のペースで事が運んでしまうことを危惧したようです。しかし、昭和55年に11年遅れての加入となりました。

この複促協は促進を決議はするがなかなか進まず「停滞協」と揶揄されていました。

昭和58年、武蔵野市長に就任した土屋正忠氏が、鈴木俊一都知事や青梅市選出の都議会自民党幹事長の水村一郎氏などの力を借りて、中央線を動かすことになりました。

高架促進の大きな問題は、建設費の「地元負担なし」を全会一致で決議している小金井市議会を翻意させることでした。その根拠は荻窪—三鷹間の高架化には地元負担が無かったことを例に挙げてです。しかし、国や都の考え方は、東京都の区は都市計画税を撤収せず、都が課税主体になることから都が負担することになるが、市は、都市計画税を徴収してることで市が一部負担することになる、という解釈でした。

当時、2千億円近い総事業費の内、小金井市の負担は約90億円といわれていました。

小金井市が地元負担ゼロを主張してる限りこの事業は進まないことになります。都心から立川まで高架になり、小金井市域だけが地上を走るということにはならないのです。

昭和60年、市議会議員になった私は、古くからの友人でもある土屋氏の指導を仰ぐことになり、このままでは何年経っても高架化はできないことから、保立旻市長と地元負担について話し合い、引き継いだ大久保慎七市長が地元負担を決断し、停滞していた三鷹—立川間の高架化が進むことになりました。

(つづく)

走り続けた16年(116)

市議会議員、そして、市長として③

本来、住んでいる自治体によって市民サービスに優劣があってはならないことです。

昭和59年度一般会計決算は小金井市民一人当たりの個人住民税が651市で5位、多摩地域では武蔵野市に次いで2位の納税をしながら、市民サービスは近隣市と比較して大きく劣っていることに市民は怒らなければなりません。まして、その原因が人件費にあり、その比率41・2%は全国ワースト1位なのです。市民のための市政とは到底いえない行政が長い間続いていたのです。この状況を打破するため、昭和60年に予定される市議会議員選挙に、立候補する決意をしました。

昭和58年の土屋正忠氏の武蔵野市長選挙や、就任直後、大混乱の中での高額退職金是正の公約を果たす土屋市長の言動を目の当たりにし、私は市政は変えられるし、小金井市政も変えなければならないと確信しました。

小金井市に転入し10年が過ぎたとはいえ、親戚一軒友人一人いない町に越してきての選挙は厳しいものがありました。相談する人もいない中、ひとりで決断するのです。

昭和60年の新年を迎えるに当たり、その年賀状に立候補を決意したことを表す文言を記載しました。しかし、それを投函する勇気が出ず毎日年賀状とにらめっこが続きました。そして、元旦に届くタイムリミットの日、もう後戻りはできない、と自らに言い聞かせ、ポストに入れました。

新しい年を迎え、地域の有力者や市内4か所に加入している商店会の役員を訪ね、私の考えに理解を求めることから始めました。知名度が全く無く、話を聞いてもらえれば上出来と言う状況でした。その様なとき、市議会議長も務められ、地元で非常に信頼の厚い大久保耕吉氏の支援が得られたのです。

大久保氏からは「稲葉さんは地元に溶け込んでいます。郷土を愛する若い政治家が育つことに期待しています。緑町の地域代表として頑張って下さい」とのメッセージはすぐにリーフレットに使わせていただきました。

また、2年前に武蔵野市長に就任し、飛ぶ鳥を落とす勢いの土屋正忠氏の応援もいただくことで泡沫候補からは脱却しました。

私の選挙公約は行財政改革が主体です。それは、職員定数の削減、給与制度の是正、業務の民営化の推進、昼休みの窓口業務の開始等、活力ある市役所づくりです。また、三鷹—立川間の高架化や駅周辺整備など街づくり、教育や環境問題、そして、情報公開を積極的に行うことを約束しました。

自分の日頃の持論をマイクを通して言えることは大変に気持ちの良いことですが選挙の結果については非常に不安でした。多くの候補者の選挙戦での訴えは行財政改革でした。

選挙戦残り1日となった金曜日夜、土屋市長と票読みをしました。少ない票田を積み上げた結果、1千150票で中位で当選と判断しました。その時の土屋市長のメモは今でも大切に保管しています。

3月31日が投票日、翌日4月1日の開票で、私の得票は1千151票、19位で当選させていただきました。

市議選が終えて間もない5月は市長選挙です。自らの公約実現には保立旻市長の再選がどうしても必要です。

(つづく)

走り続けた16年(64)

この1年を振り返って

平成29年も残り僅かになりました。当欄「走り続けた16年」も本年最後になりました。1年間のご愛読に感謝申し上げます。

この1年を振り返って、皆様にとってどんな年だったでしょうか。喜怒哀楽いろいろあったことでしょうが、幸多き年であったことだと思います。

天皇陛下の退位を実現する特例法の制定により、天皇陛下が平成31年4月30日に退位し、翌5月1日、皇太子殿下が即位します。同時に新たな元号に改められることが決定しました。「平成」の時代もあと1年4か月で幕を引くことになり、新たな元号がスタートしますが、元号でその時代を証言したり、自らの人生の節目とすることもあります。来年は平成の仕上げの年になることでしょう。

世界は、1月米大統領に就任したドナルド・トランプ氏と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の動向に危機感を感じた1年でした。両者とも大人気ない子どもの口喧嘩のような信じられない言動の繰り返しで、この二人に世界の命運が握られていることに空恐ろしいものを感じます。

また、世界中を震撼させた過激派組織イスラム国(IS)は崩壊しましたが、世界に紛争やテロは絶えることなく、多くの難民が発生しています。紛争地域に生まれたがために、瓦礫の中で恐怖と飢餓に苦しみながら、学校にも行けずにいる子どもたちを思うと大変心が痛みます。

平和で豊かな生活を営む私たちもその現実を直視し、自分たちに何ができるかを考えなければなりません。

小金井市は1年を通じて選挙の年でした。3月の市議選では一人の同志を失い、7月の都議選は今でも信じられない風が吹き、そして、10月は解散に伴う衆院選となり、私が小金井市の選対本部長を務めた土屋正忠氏が惜敗するなど、結果の出せない選挙戦になってしまったことが非常に悔やまれます。

私は、過日73歳になり、健康寿命の平均年齢の71歳を超えましたが、さらに健康寿命延伸のためウオーキングを続けています。連日市内を歩いていますが、4月末のウオーキングフェスタで30㌔㍍、8月末は三宅島一周約30㌔㍍、11月5日は野川の源流である国分寺真姿の池から多摩川との合流点である二子玉川まで完歩しました。

昨年12月から今年の11月までの1年間、スマホによる歩行距離は4千㌔㍍で、ほぼアメリカのロスアンジェルスとニューヨーク間に近い距離を歩いたことになります。1日平均11㌔㍍超となり、歩数にすれば約2万歩で、今思うと、少し歩き過ぎたとの思いです。

「健康長寿小金井」を推進するには、健康寿命の延伸が必要です。そのためには、バランスの取れた食事、環境や体力に応じた適度な運動、そして、社会参加が必要です。

さあ、家を出て近所を歩きましょう、知人や友人にお会いできるし、私もお会いしたいと思いますので。

どうぞ良いお年をお迎えください。

(つづく)

走り続けた16年(62)

衆院選 ④

私が前衆院議員の土屋正忠を知ったのは学生時代で、今から50年も前のことでした。しかし、親しくなったのは、昭和58年の武蔵野市長選挙で多少の手伝いをして以来であり約35年になります。

昭和60年に私が小金井市議会議員になって14年間、さらに、市長としての16年間、地方自治の大先輩とし、また永年の友人としてアドバイスをもらうとともに、小金井市の街づくり等にも尽力いただきました。

長い付き合いの中で、人柄、情熱、先見性、決断力、そして、政策形成能力を見るにつけ、まさに政治家になるべくしてなった人だと思っていました。いつか小金井市も選挙区となり投票用紙に「土屋正忠」と書ける日が来るのを期待し、その時、自分がどの様な役割が果たせるかを考えていました。

菅直人は参院選を含め3度目となる昭和55年の衆参同時選挙で衆院初当選。以降、抜群の知名度で連続当選を続けており、自民党は候補者擁立に苦慮してきました。

衆院選が小選挙区制に変わり、東京18選挙区が武蔵野市、三鷹市、小金井市と決まり土屋と一緒にできるという念願が叶いました。その時、私に「おめでとう」の電話も数本入りました。

土屋は地元武蔵野市は勿論、多摩各地域においても地方自治のリーダーとして、国や都とのパイプ役を果たし多摩地域の発展に尽力してきました。当然、土屋に衆院選出馬要請があります。しかし、「自分は中小企業の社長が似合っている、生涯市長だ」と断り続けていました。

平成8年、小選挙区最初の選挙が執行され、東京18選挙区(当時は武蔵野市、三鷹市、小金井市)は菅の11万7千票に対し自民党候補は2万4千票。次の平成12年は11万5千票に対し5万票。

三度目の平成15年は知名度の高い鳩山邦夫が比例での当選の保証を受けて挑みましたが、菅の14万票に対し8万3千票の得票で約5万6千票の大差をつけられました。

平成17年8月8日の小泉純一郎首相により衆院は解散しました。いわゆる郵政選挙です。武蔵野市、府中市、小金井市の18選挙区は、小泉総裁をはじめ党役員直々の要請を受け、土屋が市長を辞しての出馬を決意しました。私はその情報を遠いポーランドで聞きました。帰国した私は満を持して早速選挙の準備に入りました。

衆院選候補者の公開討論会が行われる小金井市公会堂に二人で歩いて行く途中、土屋が「菅には比例での復活は止めて、小選挙区一本での勝負を申し込む」と言うので、私はその発言はしないでほしいと伝えました。

比例名簿が29日に発表され驚きました。自民党は東京ブロック1位が猪口邦子、2位が土屋、3位は小選挙区立候補者23人が横並びでした。そのため猪口と土屋は戦う前から当選が決まってしまったのです。当然相手陣営は「土屋の当選は決まっています。18区からもう一人の衆院議員を…」という宣伝が繰り返されました。

その結果、選挙は7千800票差まで肉薄しましたが、菅の勝利となりました。党本部の温情が仇となり、自民党圧倒の中で不利な戦いを強いられてしまいました。(敬称略)

(つづく)