走り続けた16年(160)

平和を考える8月②

日本の長い風習は、お盆の時期は一斉休暇で故郷に帰るというものでしたが、今年はコロナの影響でお盆休みは例年と違ったものになってしまいました。それでも、新聞やテレビ等は75年前の戦争についての番組の編集に大きな時間等を割いての報道は必要なことであり、歴史の風化を防ぐため、若い人たちにも伝えていかなければならないと考えます。

私は平成17年、戦後60年という節目で、ナチス・ドイツの強制収容所であるポーランドのアウシュビッツを訪ねました。最初のビデオ説明では「目を反らさず最後まで見るように」から始まります。それは、ユダヤ人であるということだけで、罪のない600万人ともいわれるユダヤ人が残虐な手段で殺されたのです。その現場に触れた時、人間はこれ程まで残虐なことができるのかとの思いでした。

そこには、大勢のドイツの若者たちも団体で来てました。自分たちの国が犯した戦争犯罪を直視し、再び過ちを繰り返さないとの考えからの訪れでした。

私も戦争によって人生を変えられた被害者の一人として、平和を希求し、種々の平和事業に取り組みました。

平成20年1月31日、旧知の間柄の京都府綾部市の四方八洲男市長が市役所に来られ、中東和平のプロジェクトを開催してほしいと依頼されました。

すでに予算編成は済んでいましたが、7月「中東和平プロジェクトin小金井」を開催することにしました。

これは、イスラエルとパレスチナの紛争で肉親を失った高校生を招き、二人一組で6組がホームステイ等を通して交流を深めていくもので、その中で「お互いに銃口を向け合うのは止めよう」との言葉が出たことで、平和に向けて一粒の種を蒔くことができたと確信しました。

その評価は、同年9月ニューヨークの国連本部で就任間もない麻生太郎総理大臣の一般演説で「日本の市民社会が進める平和促進」と紹介され、世界中に発信されました。

その後、イスラエル、パレスチナを訪れ、その緊張関係に接した時、小金井市で誓った高校生たちが早くリーダーになることを願いました。

昭和20年の8月は6日に広島、9日に長崎への原爆投下、そして、15日の終戦と激動の月でした。それは満州(中国東北部)も同様で、生後間もない私の運命を大きく変えたのがソ連の参戦でした。

ソ連とは日ソ中立条約を締結し、相互不可侵と第三国の軍事攻撃に対し中立を定めたもので、信頼してたソ連の裏切りでした。

8日に宣戦布告したソ連は翌9日未明から満州に侵攻。私の両親は、取るものも取り敢えず砲弾の音に追われながら、ソ満国境の牡丹江省綏雰河(スイフンガ)駅から、当駅助役の28歳の父を残し、母と奉天(現・瀋陽)に向かって逃げました。そこで1年間の難民生活の後、葫蘆島(コロトウ)から引き揚げ船で日本に帰りました。

平成13年8月、家族で満州の私の生家と父と生き別れた綏雰河へ慰霊の旅に立った時、妻の母が詠んでいた二首の短歌です。

内に秘め耐えたることの多かりし 如何に伝えん父の御霊に

あの時の別離の言葉忘れまじ 父を訪ねて北満の旅   歌子

(つづく)