走り続けた16年(163)

大久保市政【施設管理④】

昭和33年10月に市制施行した小金井市は、職員の採用をこれまで選考で採っていたものを、公募による採用を始めました。

昭和36年、職員組合がその公募で採用された平均年齢24・5歳平均勤続年数わずか3年弱の若手職員により組合が再建され、組合委員長にM氏が就任し、これまでの御用組合が一変しました。

M氏は免職期間の一時期を除いて、昭和59年に退任するまで4半世紀にわたり一貫して委員長の地位にありました。その間、暴力的な労使交渉に対する当局の弱腰対応、また、8年間の革新市政により、全国的にも例のない賃金、労働条件にしたことから、カリスマ的支配が形成され「影の市長」「天皇」と呼ばれ、特に現業職場には有利な労働条件の変更により信奉者が多く生まれました。その結果が人件費比率全国ワースト1位を繰り返すことになったのです。

昭和52年第一回定例会で、市職員定数条例が95名増の1千136名に改正されたことにより準職員とされていた90名の警備員の内、70歳台の高齢者等を除いた72人が正規職員として採用されました。

革新市政下の労使間では、永年の懸案であったごみやし尿収集の多摩清掃公社100名の直営化や警備員の正規職員化で、やっと課題解決との考え方もあったようです。しかし、それが小金井市苦難の始まりだったのです。

この様な状況を憂えて、市民団体である中山谷青壮年会が市政の現状を、その機関紙で財政状況、行革の必要性を広く市民に訴えました。また同じ市民団体の菊栄会も市政の健全化に向け、種々の抵抗にもめげず積極的な活動を展開しました。

昭和54年4月の市長選挙で星野平寿氏が当選し、2期8年間続いた革新市政にピリオドが打たれました。

星野、保立旻市長と続く保守・中道市政では、当面する財政問題特に人件費問題が再重要政策となり、職員削減のため欠員不補充を打ち出しました。

昭和58年6月からの市施設管理の新制度で10施設は無人化し、14校の学校警備は1校2・5名の35名体制となり、施設管理室13名と72名体制が48名体制となり、余剰人員は他の現業職場への欠員補充となりました。

保立市長が辞任し、市長がいない昭和62年3月、市長職務代理者が「欠員5名のうち1名を補充して見直しの協議に入りたい」と組合に提案していたが、4月に当選した大久保慎七市長は「見直しの協議の結果必要なら入れるが…」とこれを撤回しました。そのため、学校警備職員は約束が違うと、8月からの時間外勤務を全面的に拒否してきた。そのため学校の宿日直は畑違いの市長部局の部課長管理職60人が交替で務めることになり、混乱はさらに長引いていくことになります。

因みに、警備員は5日の内2日の勤務で、午後4時に出勤し午前8時30分までが拘束時間で、午前零時から6時まで仮眠時間です。昭和61年度の学校警備の人件費は2億1千万円で、最高給者は987万円であり、1人1日の実勤務における給与は4万2千835円の経費がかかっていると報告されました。

これは、市民の市政というより、職員のための市政が長い間続いていた証左なのです。

(つづく)

走り続けた16年(162)

大久保市政【施設管理③】

社会党、共産党の支援を受ける永利友喜氏が昭和46年三代目市長に就任し「市の人件費増は市民の要求に基づく事業経費の増加であり、事業を進めていく上に必要不可欠なものということができると思います」と施政方針等でも発言し、これが革新市政の基本的な考え方であり、人件費を削減し、それを市民サービス向上の財源にする、という私の考えとは真っ向から対立するものでした。

昭和48年9月には、ごみやし尿を収集する多摩清掃公社を直営化し、100人の正規職員の増員もありました。

その数か月前の4月には、学校など30の市施設に各々3人配置の90人の準職員を配置することで労使が合意しました。準職員とは正規職員とほぼ変わらない条件で、職員定数条例の枠外とするもので脱法的対応と言わざるを得ません。さらに、準職員の近い将来の正職化も約したのです。この定数外の準職員については当時の自治省や都の指導も無視して実施されたのです。

当時のマスコミには「一月10日、泊まりに行くだけで給与が貰える」とか「(年収)775万円の警備員」と厳しく批判されました。

昭和49年第一回定例会に警備員の正規職員化の条例改正案の提案を見送ったことに猛反発、連日の労使交渉が始まりました。そのため、議会の開会を知らせる振鈴が鳴っても、市長は市長室に閉じ込められ、警備員を中心にした職員が団体交渉の不満をぶちまけるのであり、それは、議会の開会時間を無視しても続けるのです。

また、出勤する市長を取り囲んだ職員が「お前、誰のお陰で市長になれたと思ってんだ」と罵声を浴びせたり、胸ぐらを掴み足蹴りにし怪我をさせるなど、市民には到底考えられない、組織の体をなしていない事態が起こっていたのです。

警備員等職員は「即時無条件正規職員化と合理化反対」の要求を掲げ、市長室前に座り込む闘争に入りました。この座り込みは昭和49年4月から2年2か月連続680日にも及ぶものになりました。

小金井市役所に無法がまかり通った時期でした。それは、度重なる市長の方針変更、政治生命をかけるといいながら議会との約束を反古にし、野党の市長不信は益々つのり、与党である社会党、共産党まで批判的な面が現れ、議会との対立が顕著になったためです。

昭和52年第一回定例会の前に労使の合意が果たされ、警備員を正規職員として定数化する「職員定数条例の一部改正」が市長から議会に提案されました。

審査を付託された総務委員会は賛成2、反対3で否決されたことで、本会議でも否決と見られたが5名の議員が退席し、採決は9対9の可否同数となり与党・社会党議長の採決で可決されました。

この条例改正により一挙に職員定数が95名増の1千136名となり、準職員の警備員は正規化されました。そのため、当該年度の人件費比率はワースト日本一の44・4%となり、その後も全国ワーストの40%台が長く続き、人件費が小金井市財政のガンとなり、長い間、市政を蝕み苦しんでいくことになるのです。

因みに、私の任期最後となる平成27年度の職員数は661名であり、人件費比率は15・33%でした。

(つづく)

走り続けた16年(161)

大久保市政【施設管理②】

昭和46年4月、市民の選択により革新市政が誕生しました。しかし、これが小金井市政を混乱に陥れ、市民の見えないところで30数年に渡り泥沼状態が続きました。その元凶が、建設部維持補修係と学校を含む施設警備の施設管理係であり、諸悪の根源であったと言っても過言ではありません。一部職員による問題行動は無法がまかり通る様相で、報復を恐れて正せない当局にも責任がありました。また、議会も職員定数を次々に増やす条例改正をした責任は免れ得ません。これによって失われた損失は計り知れず、取り戻せない程大きなものでした。

昭和60年からの私の14年間の議員活動は、行財政改革を進める立場で、志を同じくする先輩議員の言動を見習いながら、反行革の労働組合や一部職員との闘いの連続でした。

振り返ると学校警備は驚きの連続でした。小・中学校の警備や用務は昭和30年当時は住込みの小使さんがそれを果たしていました。その後、教職員が交代で宿日直をするようになりましたが、昭和37年頃から日教組の教職員による宿日直拒否の運動により、市内の小・中学校は個人委託方式の形の臨時職員による警備となりました。

その後、警備員の退職などにより警備会社に委託するようになりました。しかし、その警備会社が、警備員の待遇改善に応じられないことから、矛先は市の方に向くことになり、再び、市の個人委託に切り替わりました。

この状況下に誕生したのが革新市政です。

正職員化を主張する警備員との交渉が重ねられましたが、国家試験の受験生や学生運動等を経てきた警備員らとの交渉に革新市政は力不足でした。昭和48年7月から8月にかけての30日間連続の全員交渉に屈して、1施設3名の準職員配置の警備と、30施設90人全員の正職化も約束したのです。選ばれた革新市政とはいえ、あまりに無責任な市民無視の労使合意でした。

1施設3名配置というのは1日働いて2日の休みで、勤務日は午後4時に出勤し午前8時30分までが拘束で、午前零時から6時までは仮眠時間なのです。

昭和49年12月議会で永利市長は「5月27日午前9時頃、東庁舎入り口で、市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ、足蹴りで左足に打撲を受け、全治3週間の診断を受けたのは事実です」と発言、さらに「労使慣行の正常化と、本人の生活権と将来を考えて(法的)手続きはしない」とのことです。

市長を大勢の職員が取り囲み、自分たちの主張が通らないことから、胸ぐらをつかみ蹴って怪我をさせる。この傷害事件に対し加害者の将来を考えて法的手続きはとらないとのこと。市役所での常軌を逸する行為で私には全く理解できない。これが、小金井市を悪くしていったのです。

府中市の吉野和男元市長が「助役時、府中市の警備員の正職化運動の混乱が急に静まったことをいぶかしく思っていた。それが、小金井市長を訪ねた際、市長室前に座り込む職員の中に府中市の多くの警備員を見て『助かった』と思ったよ」と言っていました。個人委託から両市の警備を兼務してた人達が弱腰の小金井市を選択したことのようでした。

(つづく)