走り続けた16年(172)

令和2年の終わりにあたり 

本年も残り僅かになりました。皆さんにとってこの1年、どの様な年だったでしょうか。子どもから高齢者にいたるまで、世界中の全ての人々が新型コロナウイルスの恐怖に晒された1年でした。

この辛い報道は朝から深夜まで続き、新たな感染者の増加などを伝えています。76年前の戦時中、大本営発表のラジオニュースが、こういう状況だったのではと思われます。

コロナ禍が長期化する中、年末にも関わらず感染の危険と隣り合わせで、医療の最前線で奮闘されている医師や看護師など医療関係者の皆さん、また、エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々にも感謝の目を向ける必要があります。それは、緊急事態で外出自粛となっても、私たちの生活を支えるため、危険と隣り合わせの中、その使命感で通常通りの仕事に日夜献身的に取り組んでいる方が大勢います。そして、それを支えているご家族の皆さんにも心から感謝したいと思います。

入学や就職など人生の大きな節目にあたってしまった人や、ご自身の将来設計を変更せざるを得ない方もいます。また食糧や水も不足する発展途上国や紛争国、難民キャンプの子どもを含む人々の悲惨な状況にコロナ禍が追い討ちをかけていることに心が痛みます。

私たちがすべきことは、自らが感染しないための感染防止策に努めることに尽きます。

一日も早くワクチンが世界中に普及されることを願うものです。

そのように暗い世相の中、年末になって明るいニュースが飛び込んできました。

日本の小惑星探査機「はやぶさ2」が、地球から3億キロメートルも離れた小惑星リュウグウを6年かけて往復し、リュウグウの石や砂を採取したカプセルを無事地球へ送り届けるという探査ミッションを完璧に達成したことです。宇宙の貴重なお土産を地球に届け休む間もなく再び宇宙への旅にでる「はやぶさ2」。機体が完全なため当初計画にはない新たな探査に旅立ったが、新たな目標の小惑星に到着するのは11年後の2031年とのことです。地球にリュウグウの玉手箱を残して再び次のミッションに向けて去っていくなんて格好よすぎますね。

「初代はやぶさ」が主力エンジンの故障や通信断絶などトラブルが相次ぐ中、満身創痍で2010年、国民注視の中、奇跡の生還を果たしたのが、今回の大成功につながったものと思われます。

私のこの1年は、感染予防対策を十分果たしながら、趣味でも健康維持でもあるウオーキングは毎日欠かさず距離は3千400㌔㍍でした。その甲斐あってか健康寿命を1年伸ばすことができました。

長い間乗ってきた車を1月に手放しました。これは、高齢者の交通事故が多発することから、もらい事故も考えれば自分だけは別だと言い切れないことで決断しました。

また、4月29日発のロシア、樺太へのダイヤモンドプリンセスのクルーズ、7月の中国東北部(旧満州)への父親への慰霊の旅も中止となり、本年の計画のほとんどが翌年送りになりました。

来年はコロナ禍も収まり、オリンピック・パラリンピック開催に期待したいものです。

どうぞよいお年をお迎えください。

(つづく)

走り続けた16年(171)

市議会議員として

労働組合主導の小金井市が昭和50年前後8年の革新市政で、さらに市民より職員のための市政が展開されました。高い市民の担税力は職員の人件費に費やされました。そのため、人件費比率は長年にわたりワースト日本一を繰り返しました。

市議一期目後半の昭和62年、この状況を改善するため、私はカリスマ的存在で組合を主導し「天皇」とも言われる朝熊(仮名)係長を特別扱いすることは、職員の士気にも影響し問題だと主張、議会も決議し改善を求めたが、当局は混乱を恐れるあまり手が付けられない状況でした。

そこで私は、壁新聞、チラシ、街宣車などで直接市民に現状を訴えることにしました。

すぐに反応がありました。大久保慎七市長から、影の市長的存在の係長の実名を上げての壁新聞を外してほしいということでした。筋違いの要望をする市長には大きなプレッシャーがかかっていたと思われます。壁新聞は外しましたが、チラシの配布と街宣車での運動は続けました。

犯人が特定できなかったことから原因が何んだったか分かりませんが、時を同じくして私の身辺にはいろいなことがありました。

まず、駐車場に止めてある街宣車のタイヤにチョークで何本もの線が引かれているのです。これは、駐車違反を繰り返すというイメージダウンを狙ったものと思われます。次は、嫌がらせの電話です。これは夜から翌日未明まで続き悩まされました。支援者の警察OBの方々が警察署やNTTに掛け合いました。逆探知の対応は無理でしたが、逆探知の機器をセットしたかの対応で解決しました。

また、本町2丁目の寿司屋さんから寿司25人前や、10人前の蕎麦が届けられることもありました。さらに、救急車やパトカーの警察官が階段を駆け上がってくることもありました。私の7店舗あったコインランドリーの複数の店舗のガラスが割られたり機械にいたずらもありました。ある朝、マンションの駐輪場に立ち入り禁止のテープが張られ、その中には数人の警察官が焼けた自転車の回りを調査していました。自転車の前かごに、ごみ袋に詰めた新聞紙に火をつけたのです。燃えた自転車には私の名前が書かれていました。

何のためか理由も説明せず、2人の警察官が狭い我が家に夜中まで張り込むことも数回ありました。

嫌がらせや脅しに屈することはなく、逆に元気が出ますが、私の行動で市長や管理職への八つ当たりや、全く関係ない人に迷惑が掛かるのは辛かった。

昭和62年12月定例会の総務委員会で、私のチラシや壁新聞が「議員の市政ニュースに関して」と、議論の対象となりました。さらに翌年3月の予算委員会で再び議論となりました。私は、困ったような態度は装うが、内心混乱は大歓迎でした。そのような状況の中、大久保市長が労働組合との団体交渉で、私の行動に対し、組合委員長宛てに「議員に理解を得る努力を怠った」とのお詫びの公文書を提出したことから、議会は市長の越権行為だと猛反発。問題解決は6月議会にまで持ち越されました。私の行動で市政は混乱したが、長年続いた組合主導の市政にくさびを打ち込んだとの思いでした。

(つづく)

走り続けた16年(170)

大久保市政【施設管理⑨】

小金井市が市制を施行した後、昭和36年に職員組合を再建し自ら委員長に就任。その後、四半世紀に渡って組合の委員長に君臨し、天皇とも影の市長とも呼ばれた朝熊(仮名)係長が、日常、組合活動以外に果たすべき仕事もなく、時間を過ごすだけの施設管理室の改善を、昭和62年9月議会で共産党を除く全議員の賛成で市議会が議決したのです。

この決議の進捗状況を市長が議会に報告する昭和63年12月22日の本会議で「朝熊天皇」に傾倒する市職員が不体裁な態度で傍聴し、議員が「天皇」にとって批判的な発言をすると、野次を飛ばすなどして質疑を妨害する始末で、時には、議場に乱入するなどして議会を混乱させるのです。市長も管理職も混乱を恐れて手が出せない状況が続きました。

議会決議があっても施設管理室の改善は全く進まないのです。

平成2年6月議会で狭隘な庁舎の現状から適正配置を検討した結果、施設管理室を半分に縮小した、との市長報告がありました。これは、基準の2倍の広さの事務室を真ん中から仕切って、そこにドアを付け手前を倉庫にするものでした。これは、私たちが想定した決議の内容に沿ったとは到底いえない、と議会は猛反発したが、当局の答弁は「長年の経過があり、指摘通りの措置は難しい」ということでした。

一係長の事務室を移動させられず、施設管理係や土木課など息の掛かった部署の職員は鼻息も荒く、議会の進行は妨害するし、上司を吊し上げたり、職場放棄をするなど、恐いもの知らずで市役所を闊歩しているのです。

圧倒的多数の真面目に働く職員が小さくなり、組合活動をする職員が大手を振っている状況でした。

私の主張は、この様な状況を改善すべきであり、特定の人の特別扱いは止めるべきだということでした。それは、市役所全体の職員のモラルや士気に影響を与え、勤労意欲の低下になるからです。

議会決議に対応すべく、労使は50回に及ぶ協議を時間外手当をつけて行ったにもかかわらず進展しません。

この様な状況は、税の効率的な運用とはいえず、納税意欲にも影響を与えると考え、私は、混乱の広がりを覚悟して行動することを決意しました。

それは、施設管理係の朝熊係長が特別の処遇を受けているのは異常で正すべきとの主張を市民に知らせることでした。チラシの配布、壁新聞、個人で所有する街宣車を使って実名をあげての広報です。

これには、すぐに反応がありました。大久保慎七市長が自宅を訪ねてきて、壁新聞を外してほしいというのです。私は、市長と議会は別機関であり議員活動に、市長が制限を加えるのは筋違いであると答えました。私の主張は当然市長には理解できる内容であり、それを私に頼まざるを得ないような厳しい環境があったのです。私にとって一番辛いのは、私の行動で他の人が攻められることでした。大久保市長とは同じ話の繰り返しで、結局、壁新聞は外すことを了承しました。しかし、チラシの配布や街頭演説は続け、朝熊天皇の実名を白日の下にさらしたことに対する反応と思われる行動に、小金井警察も出動する事態になりました。

(つづく)