走り続けた16年(171)

市議会議員として

労働組合主導の小金井市が昭和50年前後8年の革新市政で、さらに市民より職員のための市政が展開されました。高い市民の担税力は職員の人件費に費やされました。そのため、人件費比率は長年にわたりワースト日本一を繰り返しました。

市議一期目後半の昭和62年、この状況を改善するため、私はカリスマ的存在で組合を主導し「天皇」とも言われる朝熊(仮名)係長を特別扱いすることは、職員の士気にも影響し問題だと主張、議会も決議し改善を求めたが、当局は混乱を恐れるあまり手が付けられない状況でした。

そこで私は、壁新聞、チラシ、街宣車などで直接市民に現状を訴えることにしました。

すぐに反応がありました。大久保慎七市長から、影の市長的存在の係長の実名を上げての壁新聞を外してほしいということでした。筋違いの要望をする市長には大きなプレッシャーがかかっていたと思われます。壁新聞は外しましたが、チラシの配布と街宣車での運動は続けました。

犯人が特定できなかったことから原因が何んだったか分かりませんが、時を同じくして私の身辺にはいろいなことがありました。

まず、駐車場に止めてある街宣車のタイヤにチョークで何本もの線が引かれているのです。これは、駐車違反を繰り返すというイメージダウンを狙ったものと思われます。次は、嫌がらせの電話です。これは夜から翌日未明まで続き悩まされました。支援者の警察OBの方々が警察署やNTTに掛け合いました。逆探知の対応は無理でしたが、逆探知の機器をセットしたかの対応で解決しました。

また、本町2丁目の寿司屋さんから寿司25人前や、10人前の蕎麦が届けられることもありました。さらに、救急車やパトカーの警察官が階段を駆け上がってくることもありました。私の7店舗あったコインランドリーの複数の店舗のガラスが割られたり機械にいたずらもありました。ある朝、マンションの駐輪場に立ち入り禁止のテープが張られ、その中には数人の警察官が焼けた自転車の回りを調査していました。自転車の前かごに、ごみ袋に詰めた新聞紙に火をつけたのです。燃えた自転車には私の名前が書かれていました。

何のためか理由も説明せず、2人の警察官が狭い我が家に夜中まで張り込むことも数回ありました。

嫌がらせや脅しに屈することはなく、逆に元気が出ますが、私の行動で市長や管理職への八つ当たりや、全く関係ない人に迷惑が掛かるのは辛かった。

昭和62年12月定例会の総務委員会で、私のチラシや壁新聞が「議員の市政ニュースに関して」と、議論の対象となりました。さらに翌年3月の予算委員会で再び議論となりました。私は、困ったような態度は装うが、内心混乱は大歓迎でした。そのような状況の中、大久保市長が労働組合との団体交渉で、私の行動に対し、組合委員長宛てに「議員に理解を得る努力を怠った」とのお詫びの公文書を提出したことから、議会は市長の越権行為だと猛反発。問題解決は6月議会にまで持ち越されました。私の行動で市政は混乱したが、長年続いた組合主導の市政にくさびを打ち込んだとの思いでした。

(つづく)