走り続けた16年(177)

「或る障がい者の死」②

令和2年8月13日、身寄りもなく重度の障がいのある山ヵ絵里さんが桜町病院で亡くなりました。享年61歳と短い人生でした。

昭和59年、絵里さん26歳のとき両親と3人で前原町に越してきました。自宅で母の手厚い介護を受けていましたが、平成7年その母が亡くなり、小金井市障害者福祉センターに父恭一さんの押す車椅子での通所となり、10年間多くの友だちもでき楽しく生き生きと暮らしていましたが、絵里さんも体力の衰えや恭一さんの病気で、平成16年絵里さんは八王子市館町の八王子療護園へ入所しました。

平成24年11月25日、自宅で山ヵ恭一さんが死去し、遺言書には全財産を「小金井市の障害者福祉事業に寄付する」とありました。さらに、八王子療護園に入所している絵里さんを思い「将来的に生活が維持継続できるようにしてほしい」との記載がありました。

年が変わった平成25年。遺言書に沿って前原町2丁目のご自宅を解体し更地にして売却するなど、山ヵさんの全財産を金銭に換えました。絵里さんの成年後見人から遺留分を請求したいとのことで、1億円を超える相談財産は市と分けあうことになりました。

夏が過ぎ遺産処理も終えたこともあり、絵里さんの入所する八王子療護園を市の担当職員と訪問しました。
 事前に連絡しての初めての訪問でしたが、なんで小金井市長が来るのか。絵里さんに何があったのかと施設内は大騒ぎだったと後で聞かされました。

絵里さんは、施設の人たちの献身的な介護でベッドで横になったままでしたが、元気な姿に安心しました。ヘルパーの方から「絵里さんが『市長を知ってる』と言ってます」と障害者センターをしょっちゅう訪問していた私を覚えていてくれたのは嬉しかったです。センターでは亡きお母さんの作った人形の縫いぐるみを大切にしていましたが、八王子療護園では熊の縫いぐるみに変わり、たくさん持っていました。

その時、支援者の方々から言われたのは「絵里さんがボードで『吉岡さんに会いたい』と指差すのですが、吉岡さんという方をご存知ですか」と問われました。私は、絵里さんが会いたがる吉岡さんとは、10年間、障害者センターで、お世話になった吉岡博之さんだと確信し「今度お会いする機会を作ります」と伝え、施設を後にしました。

秋になり、絵里さんのお母さんの眠る多磨霊園みたま堂に絵里さんと関係する親しい人たちで恭一さんの納骨をしました。

その場で、かねてより計画していた絵里さんと吉岡博之さんの10年ぶりの再会となり、その喜びは一入のものでした。その後、皆で前原町の回転寿司で食事をしました。絵里さんは食べたい物をボードで示し、付き添いのヘルパーさんがそれを半分に切って食べさせるのです。この回転寿司には絵里さんが小金井に来た時には必ず寄るようになりました。

これを契機に吉岡さんと私は度々療護園を訪れることになりました。それは、全財産を小金井市に寄付するにあたって、絵里さんが「将来的に生活が維持継続できるようにしてほしい」との遺言が常に頭にあったのです。そのため、施設で家族揃っての会食などのイベントには吉岡さんと一緒に参加しました。

(つづく)

走り続けた16年(176)

「或る障がい者の死」①

半年前、令和2年8月13日、ひとりの障がいのある女性が桜町病院のホスピスで亡くなりました。その人の名前は山ヵ絵里さんで、病名はがんでした。

絵里さんが桜町病院のホスピスに入院したとの連絡を受け、福祉団体の職員である吉岡博之さんと10時に待ち合わせて病室に入ると、すでに意識はなく10時20分、医師により死が宣告されました。享年61歳でした。

絵里さんは昭和33年11月、東京都港区で生まれ、26歳まで父恭一さんと母と3人で目黒区に居住してました。

絵里さんは幼少期に脳性麻痺より四肢麻痺の重度の障害を負うことになりました。6歳から15歳までは特別支援学校に通学し、卒業後は、都内の障害者施設に入所しましたが、施設になじめず、折り合いが合わないことから短期間での退所となり、絵里さんと恭一さんは障害者施設への通所に対して不信感を抱いていたようです。

昭和59年、絵里さんが26歳の時、家族3人で小金井市前原町2丁目に転入しました。

障害者の通所施設への不信感から絵里さんはお母さんが家庭で介護していました。

平成7年2月、その母が亡くなったことから、絵里さんは4月から父の送迎で緑町の小金井市障害者福祉センターに通所されることになりました。センターでの絵里さんは友人もできて楽しい日常となり生き生きとした生活を送りました。そのお父さんも病気がちとなり通所はセンターの送迎になりました。

絵里さんの障害は、身体は1種1級で、知的は1種2度という重いハンディキャップを負っていました。室内での移動は自らの四肢を使っての四つ這いでの移動でしたが、体力が減退し、四肢を使っての移動も次第に困難になりました。

絵里さんのセンターでの10年間、私は市議会議員として、そして市長としてのお付き合いになりました。

日常的に介護を要する状況ではあるが、ボードの絵や文字を指し示すことや顔の表情、頭部の動かしなどにより意思の疎通は成し得るもので、療養過程で接している人や場所などの記憶はあり、笑顔で喜びの表現をされていました。平成16年、父恭一さんの体力の衰えから、八王子療護園に入所しました。

平成24年11月25日、自宅で山ヵ恭一さんが死去しました。生前から全財産を小金井市に寄付したいとの考えを持っていて、それは、遺言書にも記されていました。その結果、市は相続財産の受遺者になりました。

遺言書によれば、財産整理に要した費用を除いた残額のすべてを「小金井市の障害者福祉事業に寄付する」とあり、また、遺言書には障害をもち、八王子療護園に入所している娘の絵里さんが「将来的に生活が維持継続できるようにしてほしい」との記載がありました。市は、不動産の処分を含む財産整理を行うことになり、前原2丁目七軒家通りに面した自宅を解体し、更地にした上で売却しました。絵里さんの成年後見人から、当然ですが絵里さんの遺留分を取得したいとのことで協議の結果、相続財産を双方が分割し取得することになりました。

身内の人がいないことから、恭一さんの納骨は奥さんの眠る多磨霊園みたま堂に絵里さんとセンター所長の吉岡博之さんと私で納骨しました。

(つづく)

走り続けた16年(175)

高齢者の交通事故

交通事故による被害者は高齢者や子どもが多く、また、二輪車の事故も増えています。

高齢者の事故は、横断禁止の道路を横切ることにより、走行中の車やオートバイと接触し、怪我をしたり、場合によっては亡くなってしまうような事故も多発しています。

遠回りであっても横断歩道を渡り、信号を守り、青信号でも点滅が始まったら無理しないで次の青信号を待つことが必要です。

高齢ドライバーの運転する車の事故も多発しています。

平成31年4月19日の昼過ぎ、池袋で起きた自動車暴走死傷事故は大きな社会問題となりました。それは、高齢男性(事故当時87歳)の運転するオートマチック車が暴走し、交差点の歩道を渡っている31歳の母と3歳の女児の乗る自転車をはね飛ばし、死に至らしめ、さらに、多重衝突事故となり、運転者と同乗者を含む10人が重軽傷を負いました。

高齢者の暴走事故の多くは、ブレーキをかけるつもりが、誤ってアクセルペダルを踏み急発進・急加速となり慌てて、さらに踏み込む加速でパニックとなり、車をコントロールできず衝突につながっています。これは、立体駐車場やコンビニ、スーパーの駐車場でも起こっています。

池袋の暴走死傷事故もこのケースと思われます。この事故の運転手は、かつて通商産業省(現・経済産業省)の高官であり、クボタの副社長であったためか、現行犯逮捕されることもなく、当初は容疑者と呼称されていないことなどから、特別扱いではないかと多くの批判が出ました。

裁判の公判では、「ブレーキペダルと間違えてアクセルペダルを踏み続けた」との起訴内容に「記憶にない」と否認し、「車に何らかの異常が起きたと思う」と無罪を主張しています。

この悲惨な事故により、多くの高齢者が運転免許証の自主返納をすることが報じられました。また、各地の警察は運動機能の低下する高齢ドライバーの事故を未然に防ぐため、運転免許証の返納を促す活動に力を入れているようです。

車の自動運転の発達などの安全対策が急速に進んでいますが完全とは言えず、危険は常に伴います。

私も1昨年11月悩んだ末、最後とする免許証の更新をしました。

その2か月後の1月28日に車検が切れることから、26日に銚子での義母の17回忌に行くのを最後のドライブにし、その日に車を手放すことにしました。

その後、1年が経ちましたが、散歩が趣味の私には、特段の不都合は感じていません。

丁度10年間乗ったトヨタプリウスの走行距離は1万4千941kmと短いものでした。

普通免許を取得したのが昭和39年12月9日でしたので57年間乗り続けたことになりますが、この間、無事故で違反は駐車違反程度で終えられたことは幸運だったとの思いです。

安全運転には自信がありましたが、事故に遭わないという保証はなく、事故を起こせば加害者が、結果的には被害者になってしまうこともあります。

高齢者の免許証自主返納を促進させるため、市としてもココバスや体育施設、美術館など公共施設の割引や無料化などを活用してはいかがでしょうか。

(つづく)