走り続けた16年(183)

「或る障がい者の死」⑧

令和2年8月13日に亡くなった重度の重複障がいのある山ヵ絵里さん、その財産を管理していた弁護士の後見監督人から、令和3年1月8日、遺言執行者である私と小金井市障害者福祉センター元所長の吉岡博之さんが、必要な書類等の引継ぎを受けました。吉岡さんが多忙なことから、それ以降の手続きは、相談の上私が行いました。

まず、2月22日三菱UFJ信託銀行本店の絵里さんの預金を解約し、全額の1億523万余円がみずほ銀行小金井支店の私の口座に振込まれました。また、同様にみずほ銀行小金井支店の口座から、同支店の私の口座に236万余円が振込まれました。

当然ですが、公正証書に名前があるだけの全く他人の私に全預金を振込むことから種々の書類作成のため、三菱UFJ信託銀行立川支店を度々訪れることになりました。

全ての金員が私の手元に届いたことから、次は、東京家庭裁判所立川支部の裁定を待つことになり、これも、3月9日に確定し、手続きは終了しました。

3月24日、小金井市の担当職員との最終の協議は第二庁舎6階の会議室でした。

この寄付は、特に目的を定めた指定寄付ではないが、小金井市への高額寄付で紺綬褒章を受章した絵里さんの父恭一さんの寄付を参考に、障がい者の各施設が希望する備品の購入など、見える形で使ってほしいというのが私たちの希望です。市は、この寄付金を6月定例会で地域福祉基金に積立てるとのことです。

この遺言の執行に対する市の対応は全く理解できず、情報公開に逆行するその対応には疑問を持たざるを得ませんでした。それは、市が作成した「包括遺贈に係る確認書」に私たちが押印し、それを市側が事務的に市長印を押して、私たちに返すということでした。金額の多寡には関係なく、事務的に処理するとのことでした。

私は、西岡市長と私たち遺言執行者の2人が会して調印し、それを写真に撮りたいと申し入れました。回答は、写真撮影には応じられない。三者の対面での調印を公表しないということであれば対面での調印に応じていい、という全く信じられないものでした。

遺贈を受ける立場の市長が「包括遺贈に係る確認書」への調印は公務であり、これを市民に公表しないことを条件にすること事態考えられないことです。

遺言者の口座から私の口座に振込まれている1億円を超える全額を、市の口座に振込んだことを公にしないことは私にはできないことなのです。市が市民に隠すことにどんな意味があるのか私には考えられないことでした。市報では、寄付や協定の締結などで市長の写真が毎号のように掲載されているにもかかわらずです。

4月8日、押印した確認書を市側に渡し、コロナ感染防止のためのアクリル板と包装資材が散乱する西庁舎一階の第6会議室で市長印の入った確認書を担当部長から受け取りました。同日の午後、みずほ銀行から小金井市役所会計管理者宛てに1億730万6千688円を振込んで全ての手続きが完了しました。

私の趣味はウオーキングで、毎日2万歩前後歩くコースに多磨霊園もあり、山ヵ家と平成25年に3億2千万円を遺贈された中屋キミさんの墓参りを毎月のようにさせていただいています。

また、遺言執行者としていただいた報酬は小金井市障害者福祉センターの指定管理者である社会福祉法人まりも会に寄付させていただきました。

(つづく)

走り続けた16年(182)

「或る障がい者の死」⑦

令和2年8月13日午前10時20分、桜町病院のホスピスで身体、知的に重度の重複障害のある山ヵ絵里さんが、10年間通所していた当時の小金井市障害者福祉センター所長の吉岡博之さんと私が見守る中で息を引き取りました。享年61歳でした。

8月18日に東小金井駅北口の小金井会館において、納棺の儀、お別れの儀の花入れと簡素な葬儀、そして、火葬。その後、両親の眠る多磨霊園みたま堂に納骨しました。

私は、絵里さんの父恭一さんの遺言にあった「全財産を小金井市の障害者事業に寄付する」とし「(絵里さんが)将来的に生活が維持継続できるように」との遺言が常に頭をよぎっていたのです。

今、みたま堂の中で両親とどの様な会話を交わしているのか。

絵里さんの身の回りの物は吉岡さんと私で整理し、金銭関係は介護福祉士の後見人と弁護士の後見監督人が当たりました。

絵里さんの財産は事務的に国庫に帰属させるのでなく、父恭一さんの遺言にあった「障害者福祉事業に寄付する」との思いを参考に平成28年11月28日、八王子療護園において公証人、医師等関係者10数人により、法に基づいて作成された遺言公正証書の内容に従って整理されます。

後見人の体調不良、後見監督人の多忙ということなどや、その両者の報酬額の家庭裁判所での裁定等の事務処理には多くの時間を要しました。その間も、私は、後見監督人と電話やメールで状況は把握していました。

年内に解決したいとの思いでしたが無理で、本年1月9日、立川の三多摩法律事務所で後見監督人から遺言執行人である私と吉岡さんへの事務引継ぎが行われました。

そこで、後見監督人から示された遺言執行の大まかな流れは、まず、相続人調査に始まり、次に、執行先である小金井市への通知と進め方の協議です。さらに、絵里さんの預金のある二つの金融機関への連絡と解約の手続きの協議。家庭裁判所に遺言執行者の報酬付与申立を行い、その審判(決定)をもらい、遺言を執行し、執行完了を小金井市に報告するというものでした。

遺言執行者に指名された私と吉岡さんが引継いだ通帳に記載されていた財産は、三菱UFJ信託銀行本店の預金1億523万余円、みずほ銀行小金井支店の預金205万余円が記入された通帳で、その金額は私には全く関係のない単位であり、その他、現金は13万4千682円でした。

遺言執行の手続きで必要なことには、私たち遺言執行者に対する報酬もありました。私も吉岡さんも遺言執行者としての報酬を受け取る考えはありませんでしたが、手続きは進めざるを得ず、家裁での審判となります。

本年3月9日、東京家庭裁判所において二人に同じ内容の審判が下りました。
 1 公正証書の執行に対する報酬を、金15万円とする。
 2 手続き費用は申立人の負担とする。
 というものでした。

後は、市との手続きだけを残すのみとなりました。寄付するにもかかわらず、手続きは繁雑でした。市との何回かの打ち合わせで、市に提供した資料には財産目録があり、それを証明するための種々の資料でした。

(つづく)

走り続けた16年(181)

「或る障がい者の死」⑥

身体、知的の重度の重複障害のある山ヵ絵里さんが、小金井市障害者福祉センターに通所を始めたのは平成7年、絵里さんが36歳の時でした。それまでは区内での障害者施策に懐疑的だったため家庭での介護でしたが、母玲子さんの逝去により通所することになりました。センターでは室内での移動は四つ這いで、日常的に介護を要する状況ですが、ボードの絵や文字を指し示すことや顔の表情や頭部を動かすことで意思の疎通を図ることができ、周辺で接している人や場所などの記憶はあり、笑顔や発する声で喜びを表現することができました。センターでは、物を作ったり絵を書いたりするなどして過ごし、多くの友だちもでき彼女にとって最高に楽しい10年間でした。これは、絵里さん自身はもとより父恭一さんにも喜びであり、それは、遺産の全てを小金井市の障害者福祉事業に当てて欲しいという内容の遺書にも示されていました。

しかし、年齢とともに絵里さんの障がいがさらに重くなり、同居し送迎する父も病がちになり、やむを得ず平成16年、八王子療護園に入所しました。

療護園でも職員の手厚い介護を受けていましたが、平成22年50歳の時にがんを発病し、その後、転移が確認されていました。

療護園での家族を含めた行事には障害者センターの吉岡博之所長とともに参加していました。また、遠足と称して施設から外出するときは小金井市を希望し、多磨霊園で両親の墓参りや、回転寿司で食事をし、障害者センターで昔の仲間や職員に会ったりすることが彼女の喜びでした。

絵里さんが年とともに判断力が薄れているとのことから、遺産の公正証書作成に取り組みました。それは、単に国庫に帰属させるのでなく、父恭一さんの遺言書にあった「二人が亡くなった後の財産はすべて小金井市の障害者福祉事業に寄付する」との記述に従って、平成28年11月28日八王子療護園において公証人、医師等関係者十数人により、民法第969条等に基づいて作成されました。

その後も絵里さんと私たちの交流は続いていましたが、令和2年7月、絵里さんの病状の悪化から入院が必要となり、彼女の小金井に帰りたいとの願いから、桜町病院のホスピスに入院しました。その際、療護園側から稲葉と吉岡が面会に来たら会わせて欲しいとの伝言があったと後で聞かされました。しかし、連絡の不備やコロナ禍もあって、私たちが絵里さんの入院を知ったのは1か月以上も後で、危険な状況に陥ってからでした。

吉岡さんと私は、8月13日午前10時にコロナ禍にもかかわらず、面会が許可されました。10時病室に入るとすでに意識はなく、間もなく10時20分、医師が死亡を宣告しました。吉岡さんが「稲葉さん、絵里さんは私たちが来るのを待っていたんですね」との言葉が耳に残ります。

葬儀は後見監督人と協議し、私の友人にお願いし、18日、親族はなく、後見人や後見監督人、支援者や吉岡さんと私。市役所から西岡市長と二人の部長の参列で葬儀を行いました。その後、親しい人たちで多摩葬祭場で荼毘に付しました。また、父母の眠る多磨霊園みたま堂への納骨は後見監督人、吉岡さんと私、それに、公正証書作成など種々の法的手続きに尽力した前市議会議員の河野律子さんの4名で行いました。

(つづく)