走り続けた16年(196)

街づくりへの挑戦 中央線高架②

小金井市域を南北に分断する中央線の立体交差化は市民の悲願であり、昭和44年三鷹駅までが高架になり、次は立川駅までの13・1kmの高架化への気運が高まりました。

そこで設立されたのが「三鷹—立川間立体化複々線促進協議会(複促協)」でした。目的は、高架複々線の早期完成でした。それは、在来線と新線の各上下の4線を一気に高架にするというものでした。多摩全域の自治体の参加により結成された「複促協」に小金井市は遅れて参加しました。課題は事業費の負担です。小金井、国立の両市が地元負担ゼロを主張することから設立20年を経ても膠着状態が続き、進展しませんでした。

昭和58年に武蔵野市長に就任した土屋正忠氏は青木久立川市長等とともに、高架に積極的に取り組みました。三鷹市、国分寺市は沿線の距離が短いため負担額も少ないが、問題は距離が長く、負担額の多い小金井市と国立市でした。

しかし、全体の雰囲気は次第に地元負担は止むを得ないとの流れに対し、小金井市議会は任期6か月前の昭和59年10月、その流れを変える考えだったのか「事業費の市負担をゼロにする等」の趣旨の意見書を全会一致で議決し、東京都知事等に送付しました。

昭和60年に市議会議員になった私は沿線6市の市長と話す機会も多く、地元負担ゼロを主張していては高架は進まないと判断しました。保立旻、大久保慎七両市長も市議会の議決と複促協の狭間で悩んだことと思います。

地元負担に変化が生じたのは昭和61年で、都は沿線市との負担割合を1対1から7対3にしたことでした。これにより、地元市の負担は軽くなりました。

在来線の高架の負担は、JRが全体の10%弱で、残り約90%の3分の2が国の補助金、そして、残りは都市側負担で都と沿線6市が7対3の割合で負担するものです。

昭和62年4月国鉄が分割され、JR東日本旅客鉄道(JR)と民営化されたことから、高架複々線化は経営基盤が安定してから取り組みたいとの意向でした。新線の建設に関してはJRが事業費を負担するからです。

昭和63年9月定例会で私の考えを質問を交えて表明しました。それは、高架化は実現の可能性の高い在来線を先行させる必要があり、新線の同時高架は難しいことから切り離すべきということでした。また、地元の負担は止むを得ないが、負担額を路線延長だけで決定するのでなく、新たな負担方法も考えるべき、と主張し、地元負担を容認するとの考えを示しました。

平成2年3月定例会の施政方針で大久保慎七市長は「都とJR東日本旅客鉄道株式会社が共同で立体化のための調査を開始しており、その実現に向かって確かな取り組みが見えて参りましたので、鉄道線増立体化整備基金を積み立て、関係市と歩調を合わせながら早期実現を目指してまいります」と表明し、大久保市長は地元負担を明確にしたのです。

市長の施政方針に従って提案されたのが「小金井市鉄道線増立体化整備基本条例」の制定と、線増立体化整備基金積み立てのための一般会計補正予算1億円が全会一致で可決されました。

これにより、鉄道高架へ大きな一歩が踏み出されました。

(つづく)