走り続けた16年(201)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑦

全国に鉄道立体化の要望が多くある中、国の事業採択基準は沿線の街づくりの進捗でした。特に路線距離の長い中央線三鷹~立川間の高架化の条件は、沿線6市の街づくりの進捗にありました。そのため、街づくりの進んでいる国分寺~立川の西区間が東区間に先行して事業採択となる矛盾も生じました。三鷹~国分寺間の事業採択には東小金井駅北口の区画整理の進捗の熟度に懸かっていました。そのため、市政は慌ただしく動きます。

平成6年4月に行われた二度の地権者への説明会は大混乱の末、具体的な説明に入れず打切りとなりました。そのため、7月、市は各地権者に対し管理職者による戸別訪問での説明を行いました。しかし、自分の所有する土地の減歩がどの程度なのか、また、換地による自分の土地の位置がどこになるか、そして、減歩のない場合の清算金の額など、事業が進捗しなければ確定しない中での戸別の説明は厳しいものでした。区画整理区域内はブリキ板に「土地のタダ取り、区画整理絶対反対!」と書かれた看板が、個人の住宅等いたる所に貼りめぐらされてる状況でした。

その様な中、同年7月25日に放映された日本テレビの夕方のニュース・情報番組「ニュースプラス1」を見てあまりに内容が偏っていることに憤りを覚えました。「ニッポン紛争地図」と銘打って混乱した説明会の状況が写し出され〝区画整理事業は悪〟とイメージさせる報道内容には耐えられませんでした。事前の取材で放映が分かっていたことから、関係者はテレビに釘付けになり、その番組のビデオが回し見されることになりました。

私は早速、一市議会議員として独断で、番組を担当したI記者と接触し、小宅地には減歩を緩和する施策があるにも関わらず、一律に減歩するかのような表現は過ちであり、訂正の再放送を求めました。また、電話ではラチが明かないので面会を求めましたが、なかなか応じず、執拗な要求でやっと実現しました。それも、夜10時からテレビ局ででした。話は平行線が続きすぐに日付が変わりました。テレビ局の用意した車を断り、始発電車で帰りました。その後、2~3回常識的な時間帯にテレビ局を訪ね区画整理について話すとともに番組に対する異議の申立ての手続きについても話し、私は法的措置も考えていることを伝えました。

その後、取材が再開され10月13日の「ニュースプラス1」で再度東小金井の区画整理が放映されました。内容は、前回とは異なる内容になっていました。

同年9月の市議会定例会に、市民から出された「JR中央線の連続立体化等計画の推進に関する陳情書」を採択し、「住民の合意と納得のない東小金井駅北口区画整理事業の都市計画決定に反対する陳情書」を不採択としました。

さらに、定例会最終本会議において、「中央線立体化は小金井市民の悲願であり、三多摩365万住民の願いであるとし、公園の整備や緑の確保。障がいのある人や高齢者に優しい街。平均減歩の25・58%を20%に近づけること」等を内容とする「JR中央線の連続立体交差化及び東小金井駅北口区画整理に関する決議」が賛成多数で可決されたことで市議会の推進の意思が確認されました。

(つづく)

走り続けた16年(200)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑥

平成に入り、小金井市民の悲願であり、多摩都民の念願でもある中央線三鷹〜立川間の高架化に明るさが見えそれが次第に確かなものになってきました。

平成5年度の国の予算に西区間の立川〜国分寺間の調査費4千万円が計上されました。2千億円超といわれる本事業に4千万円は僅かではありますが、これにより、この事業は国が担保して今後進められるという大きな意味を持つものでした。

翌年の平成6年5月中央線三鷹〜立川間の在来線の高架化、そして、新線の地下化が都市計画決定されました。これにより、残る課題は小金井市の街づくりの進捗でした。中央線の高架化と街づくりは「不即不離の関係」にあるとされ、大久保慎七市長の選択は東小金井駅北口の開発は区画整理としました。

昭和39年、東小金井駅の開設に伴い、駅周辺の街づくりは幾度と無く区画整理でとの方針が示されましたが、出されては消えての繰り返しが続きました。

区画整理とは、区域内の道路や公園、駅前広場等を整備するために必要な土地を区域内の所有者からの提供によって行うもので、これを「減歩」といいます。区画整理によって減歩されることに小規模宅地や住居として活用してる住民には、減歩によって土地を削られることにはなかなか納得できるものではありません。一方、農家などの地主には多少の減歩は生活に支障がなく、地価の上昇も見込めるだけに区画整理による街づくりには協力的でした。この相反する考えが地域住民に対立の構造を生み、それが議会にも波及し調整は難航を極めました。

平成6年4月7日、9日と2回に分けて地権者に対して区画整理の説明会が開催されました。しかし、両日とも議事が大混乱となり途中で打ち切らざるを得なくなりました。

この説明会は事業区域内の対象地権者150余名を西と東区域ふたつに分けて婦人会館で午後7時から行われました。地権者のみに限っての参加でしたが、受付で職員の制止を押し退けて地権者以外の人の乱入となり、会場内は「区画整理絶対反対」などと書いたプラカード等が持ち込まれ、説明会は開会前から異様な雰囲気となってしまいました。

大久保市長の挨拶は「区画整理絶対反対!」などの怒号と罵声で聞き取れず、多数の反対者が市長の前に詰め寄る状況となり、収拾が付かなくなったことから、止むを得ず市長は説明会の打ち切りを宣言、説明会は約30分で中止となりました。

私は、両日とも最初から最後まで一部始終を開かれたドアの外から見てて、反対運動に外部からの支援が入ったと思われるとともに、中央線高架に絡む本事業の遂行の困難さを実感しました。

残された三鷹〜国分寺間の連続立体交差の事業採択には、どうしても東小金井駅北口の区画整理事業の推進が必要です。議会の意向を受けての地権者への説明が不毛に終えたことから、庁内に市長を本部長とする推進本部を設置し、市の幹部職員が個別に権利者宅を訪問し、事業への理解を説明しましたが、減歩、換地、清算金などの非常に重要な課題が不確実な中での説明は地権者に不信感を招くだけで理解を得るには程遠いものでした。

(つづく)

走り続けた16年(199)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑤

「開かずの踏切り」解消のための中央線高架化は常に市政に対する市民要望の最上位でした。それが、平成2年3月、小金井市が事業費の一部を負担することに同意したことにより大きく前進することになりました。

国の平成5年度予算編成で鉄道立体化の予算要望は福岡、広島、岡山など有力な国会議員が選挙区とする6か所が手を挙げ、都も最重点施策として三鷹〜立川間の連続立体交差を要望しましたが、大蔵原案では見送られました。中央線は事業費も莫大になることから慎重な対応でした。

国は、事業採択し都市計画決定へと進めれば、沿線の街づくりとは関係なく高架化は進むとの誤った判断となり、遅れている沿線の街づくりがさらに遅れるとの危惧があり、それが、大蔵原案のカットの原因でした。

そこで、鈴木俊一都知事の直々の予算復活の陳情となりました。その結果、平成4年12月23日の局長級復活折衝で立川〜国分寺間の西区間に限って新規事業として採択されたのです。これは、国と都の間に生じた軋轢を苦肉の策で急場をしのいだといえそうです。ここで国がこだわった街づくりの遅れとは小金井市のことでした。

事業採択は立川〜国分寺間と全線の一部でしたが、調査設計費4千万円が認められたのです。2千億円といわれる総事業費の極く一部ではありますが、多摩地域の長年の悲願である中央線の高架化実現への突破口が開かれたのです。

さらに、平成6年5月、都市計画が決定されました。それは、在来線は高架、新線は地下化にするというもので、この計画は現在でも生きています。

市は昭和61年「東小金井駅周辺整備基本構想調査」を実施し、さらに、それをより具体化するため「北口」に絞っての調査を実施しました。その調査の結果、土地区画整理事業と市街地再開発事業の2案が提示され、東小金井北口の街づくりは再開発で進める方針が示されました。

中央線高架事業を進めるには東小金井駅周辺の街づくりがどうしても必要でした。

平成4年、中央線高架計画が具体的になると、高架工事には在来線を一旦北側の仮線路を走らせる必要があります。その仮線路が東小金井駅北口の再開発予定区域に想定外に食い込むことが分かりました。また、バブル経済の崩壊による経済の低迷で床需要が減少したことなどにより再開発事業は困難との判断になりました。

そこで市は、かつて再開発とともに調査していた総合的面的整備の土地区画整理による街づくりに変更することを表明しました。

武蔵境駅と武蔵小金井駅の中間に新駅が望まれ、地元市民の土地や事業費の提供により昭和39年に誕生したのが東小金井駅でした。

新たに駅ができることから周辺の街づくりが望まれ、それが区画整理事業でした。

昭和36年、新駅開設を前に、初代市長の鈴木誠一氏による東小金井駅を中心に142ヘクタールの広大な区画整理計画や、昭和43年3月二代目の関綾二郎市長の区画整理予算の提案に、市議会で事業費のほとんどが全会一致で減額修正された過去の経過がありました。地域住民の理解が得られず頓挫したのです。

この様な過去の厳しい経過が、私の脳裏をよぎりました。

(つづく)