走り続けた16年(213)

街づくりへの挑戦⑫中央線高架着工

昭和44年、中央線、荻窪から三鷹までの高架・複々線が供用開始されたが、三鷹以西の多摩地域は取り残された形となり、これが、三多摩格差のひとつとして、その解消が多摩地域の自治体には長年の懸案事項でした。

平成6年、沿線市が朝のラッシュ時のピークの1時間に、6カ所の踏切の開閉時間を調査した結果、1時間に踏切が開く時間は3分以内で、特に、武蔵境駅東側の五宿の踏切は全く開かず、武蔵小金井駅東側の小金井街道踏切は1時間のうち23秒開くだけでした。

国、都、そして、市も高架化は街づくりの一環であり、不即不離の関係にあることは共通の認識で一致しています。これをテコに沿線市の街づくりを進めるのですが、東小金井駅北口の区画整理事業が進まない中で高架化に着工することは、小金井市の街づくりがさらに遅れるとの懸念もありました。しかし、都は工事に必要な仮線路用地の8割が確保できたことから工事着工の方向に傾きました。

街づくりを進めず高架化を行うことは、これまでの国等の鉄道立体化の位置づけが根底から問われることになり、何としても東小金井の区画整理の進捗が望まれました。それが、国や都、沿線市との失われた信頼関係を回復することなのです。

平成11年に入り市政は慌ただしく動きました。中央線の高架化と沿線の街づくりは一体のものとしていた国も都も、東小金井駅北口の区画整理の進捗を待ち切れず、都は仮線路用地が一定の距離、確保されたことから、3月18日に『JR中央線高架化の着工式』を武蔵境の武蔵野スイングホールで行うことを発表しました。

私は、2月26日の記者会見で4月25日に執行される小金井市長選挙に出馬することを表明しました。翌27日、私を小学一年から育ててくれた養父が千葉県小見川町の実家で脳梗塞で倒れ17日後の3月15日逝去しました。通夜は18日と決まり、招待をされていた着工式への出席は困難となり東京都に突然の欠席を伝え了解されました。

中央線高架化に積極的に取組んできた社会党の常松裕志前衆院議員から、通夜は夜なので名刺を200枚ほど持って着工式には是非出席してほしい、ということで、当時、社会党にはお世話になることもあり出席することにしました。常松氏から早めに出席を、とのことから30分以上も前に着いたスイング11階の会場は中央線高架化の関係者でいっぱいで、その高揚感と熱気が溢れていました。私が小金井市長選の候補予定者であることから、次々に挨拶に来られる人々が私の前に列ができる程でした。中央線の高架の進捗は小金井市の動向次第であり、遅れている区画整理や仮線路用地の確保を急いでほしいという願望が挨拶の中からひしひしと感じられました。常松氏は、中央線高架事業に係る人々の小金井市に対する熱望を私に分からせたい、との思いだったのです。

型通りの式典終了後関係者は武蔵境駅近くの仮線路用地に移動し、鍬入式には残り任期僅かな青島幸男知事や沿線市長によって行われました。

大久保市長12年間の最後の提案となる平成11年度の一般会計予算は3月26日可決されました。しかし、区画整理事業に必須の施行規定を定める条例は継続審査になりました。

(つづく)

走り続けた16年(212)

大久保慎七市長退任へ

市長選挙出馬を決めた私は、平成11年2月25日、千葉県小見川町(現・香取市)の実家にその報告に行きました。養父は「自分で決めたことなら頑張れ」と賛成してくれましたが、母は最後まで反対でした。報告が終えて帰る時、突然、養父が「浜町に行こう」と言うのです。浜町とは銚子市浜町で妻の実家を指すのです。私と妻が父の会社を辞めて家を出てから約25年間、浜町に行くことのなかった養父の言葉に驚きました。25年振りの賓客に妻の実家は驚きの大歓迎となり、永年のわだかまりを解消するのに十分な時間になりました。夕方、成田線小見川駅で両親と別れる時、養父は上機嫌で「選挙は頑張るように」と言われ、私は「元気で」と車の窓越しに初めての握手で別れました。私には思いがけない展開で心晴れやかな気持で東京に戻りました。そして、26日、予定通り市長選出馬の記者会見を済ませ、翌日の27日、養父が脳梗塞で突然倒れ昏睡状態に陥った、と同居している弟から連絡が入りました。日程の合間を縫って養父を見舞いましたが、17日間も意識が戻らず3月15日息を引き取りました。

その間に平成11年第1回定例会が開催され初日の3月2日、4月25日の任期での引退を表明している大久保慎七市長の「施政方針」が本会議で示されました。それは、財政危機を示す内容で「国、地方を通じて危機的な状況に立ち至っており、とりわけ従前から脆弱な本市の行財政基盤は過去において例を見ない大幅な財源不足がさらなる追い討ちとなりさながら破たん的状態と言っても過言ではありません」とし、さらに「国の緊急経済対策による追加の特別減税も実施されるに至り、7億9千万円弱の住民税等減税補てん債の発行(借金)が許可される見込みとはいえ、これまでの累積総額が57億円を超えることになり、後年度の大きな財政負担となることも明白であることから、強力な財政再建策を実行していかなければ、赤字団体への転落が必至の情勢にあります」との発言になりました。12年間市政を執行し行革を進めてきた市長が任期を2か月残す最後の施政方針で、「破綻的状態」とか「赤字団体への転落」等との文言で財政の現状評価は辛いもので、財政再建がいかに困難かを表明するものでした。

《今、市政で何が》

1月17日に開かれた行財政改革推進調査特別委員会に配られた資料を見て驚きました。それは、今後5年間の行革の数値目標である「『アクションプラン2025』は作らない」「職員に行革疲れが起こっている」と記載されているのです。

行革は目的でなく、あくまで手段であり、その目的はあくまで「市民サービス向上」にあるのです。それは、量の行革もあれば質の行革もあります。

地方自治法第二条13項では「地方公共団体は、その事務を処理するに当たっては、住民福祉の増進に努めるとともに、最小の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない」とされており、納税者から預かった税金は、効率的な行政執行で納税者である市民にきちんと返すことが課せられているのです。市長の「行革疲れ」との文言は民間企業や納税者には通用しません。税金を使う者には常に効率的な行政執行が求められるのです。

(つづく)

走り続けた16年(211)

街づくりへの挑戦⑪区画整理

多摩地区の背骨とも動脈ともいわれるJR中央線の高架は、小金井市にとっても最重要課題であり、その事業推進は沿線市の街づくりの熟度に掛かっており、困難を極める東小金井駅北口の区画整理事業の進捗にその成否がかかっていました。

大久保慎七市長は平成10年9月定例会に区画整理事業の入り口となる「東小金井駅北口土地区画整理事業施行規定を定める条例(以下、施行規定を定める条例)」を提案しました。区画整理事業を施行する場合、法の規定に基づき、この条例の制定は必須条件です。しかし、これが想定外の難航となりました。

9月4日に提案された「施行規定を定める条例」は本会議での質疑が、9日、10日、24日と続き、やっと定例会の最終で中央線・駅周辺整備調査特別委員会(駅・中特委)に付託はされ審査されましたが、事業に対する入り口論の質疑が続き、条例の中身に入れず継続審査が繰り返されることになりました。

私は平成11年の年明け早々の7日、同僚の佐藤義明議員と都の区画整理部を訪ね、施行規定を定める条例の制定の難航から、その対応策等の協議でしたが、都は部課長とともに道路監も同席し、大歓待となり我々が面食らう程の対応でした。

都はその数日後、東小金井駅北口の区画整理事業の遅れによる不透明感はあるが、多摩地域全体を考え、中央線高架化事業の起工式を3月18日に行うことを発表しました。

1月28日に開かれた駅・中特委でも決着が着かず今後4年間に受けられる5億円の区画整理の補助金は放棄することになりました。

議会の同意が得られ難いのは、地権者の過半の反対からでした。

翌月の29日、沿線市等の市長が建設省(当時)に国庫補助の拡大の要請行動を行い、大久保市長も同行しました。沿線市の関係者からは「小金井のために高架化が遅れることがあってはならない」との声も出ていただけに、大久保市長には針のむしろに座る思いだったことでしょう。

2月5日、大久保市長が記者会見で、高齢を理由に4月の市長選に立候補せず4月25日の任期を以て引退することを表明しました。

自民党は大久保市長の後継者の選考に入りました。大久保市長から「後は頼む」と言われていた私は、執行部の立候補への意思確認に「自民党が決めれば責任は回避しない」と回答。執行部は、議会の議席が減ること、また、議会内や行政との調整役を誰がするのかが問題視されました。市議補欠選挙で穴を埋める、議会等との調整は自らが行うことで方向性が定まり、20日の幹事会での決定を公明党に伝えました。

20日の幹事会は、規約上、市長候補の決定は総務会ではないか、との冒頭の発言から、同一メンバーではあるが、総務会を24日に開くことだけを決めて散会しました。自民党の推薦が条件の公明党には、この経過が伝わらず、22日に推薦を決定しプレス発表するハプニングもありました。自民党は24日の総務会で推薦を決しました。

26日、市長選出馬の記者会見をすることから、25日に千葉の田舎に日帰りで市長選に立候補することを伝えに行きました。養父は出馬に賛成で、頑張るようにとのことでしたが、母は妻が大変になるから止めるようにの一点張りでした。

(つづく)