走り続けた16年(217)

ロシアのウクライナ侵攻

他国を侵略し、その街を破壊し無垢の市民に銃口を向け、遠距離からもミサイルで殺りくを繰り返す、信じられないような残虐な情景が連日報道されています。ロシアによるウクライナ侵攻です。

2月16日に侵攻との情報に緊張が走りましたが、それが回避され安心したところ24日の侵攻となりました。

ロシア軍による残虐行為がリアルタイムで報道されます。21世紀は平和の世紀との願いも叶わず、ロシアの大統領プーチンによる蛮行は、20世紀のナチスドイツ・ヒトラーの悪夢を彷彿させる非人道的な行動です。今世紀最大の愚行であり、今後、永久に世界の歴史に残る残虐行為です。

ロシアは世界平和を支える国連・安保理の常任理事国であり、本来、世界のリーダーであるべき立場なのに独裁者プーチンの大暴走、「これ以外の選択肢はない」との理屈を付けてのウクライナ侵攻。さらに、核兵器をもって威嚇する行動も論外であり、手が付けられない状況です。

ロシアの攻撃は軍事施設に限らず、集合住宅、学校、病院、原発など無差別に攻撃を加え、美しい街並は瓦礫と化し、市民にも銃口が向けられ、多くの子どもや女性への殺りくが続いています。

ウクライナは国力、軍事力でロシアの比較になりません。そのためには、世界が力を結集しウクライナへの物心両面の支援が必要です。世界中がプーチンの行動に批判的でありながら、その暴挙にストップがかけられず、武器弾薬等を提供してウクライナ人にロシアと戦わせるのも心苦しいものです。しかし、何としてもロシアの侵略を失敗に終わらせなければなりません。

この戦争をロシアの思い通りに終結されれば、今後の世界の秩序は保てません。武力による侵略は世界が許さないことを実証する必要があります。

ウクライナからの映像を見て、母と避難する2〜3歳の幼児が抱いている警察官の父のヘルメットを泣きながら叩いて、父との別れを泣いて嫌がる映像を繰り返し見て、私自身の精神状態が不安定になり、寝ていても何度も目が醒める状況に、友人からはフラッシュバックではないだろうかと言われています。

第二次世界大戦終戦の1週間前の昭和20年8月9日、ソ連は相互不可侵の日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦を布告しました。

当時、ソ連との国境に約30kmの満州牡丹江省(現・黒竜江省)綏雰河(スイフンガ)に住んでいた9か月の私は、砲弾の音が近付く中、母が持てるだけの荷物を持って満鉄が用意した特別の避難列車でスイフンガを後にしました。

母の手記や話によると、別れるにあたって母はどうせ死ぬなら3人一緒がいいと言ったが、満鉄社員でスイフンガ駅助役の父は抱いていた生後9か月の私を母の手に渡し「この子より先に死なないで最後まで頑張るように」と言い、2人を列車に乗せこの列車の出発を指示するためその場を離れました。28歳の父の消息はそこで終えています。

私たちは列車を乗り継ぎ奉天(現・瀋陽)に着いたのは終戦の15日を数日過ぎ、その後奉天での1年の難民生活を経て、母と葫盧(コロ)島から日本に引き揚げてきました。

(つづく)