走り続けた16年(225)

街づくりに重要な お二人⑥

昭和60年4月に市議会議員に就任し、最初の与党会議が大型連休が終えた5月8日に開かれ、6月定例会に提案予定の議案の説明・質疑等があり、自分が市政の政策決定の場にいることに興奮を覚えたものでした。その中に、武蔵小金井駅南口に大きな権利を有するH・M氏との訴訟について、保立旻市長、大久保慎七助役から報告があり、駐輪場用地を返還、使用料と和解金を支払って解決した、と報告がありました。その時は報告を聞くだけでしたが、その後、これが大きな問題を抱えていたことに気付かされました。

その14年後の平成11年4月市長に就任した私が、どうしてもお会いする必要のある人がH・M氏でした。念願叶ってお会いしたのは2か月程経ってから近隣市にある大学病院の病室でした。その場で武蔵小金井駅南口再開発事業の協力の取付けにはなりませんでしたが、昭和56年から4年間続いた市との訴訟に触れることなく、14年間の市との断絶にピリオドを打つことができたことは私にとっては大きな成果でした。

その後、H・M氏に近い方から「同氏が再開発を進めることを望んでいる」との報告を受け、本格的に再開発事業に取り組むことになりました。

そのH・M氏が2か月後の平成11年9月28日逝去されました。享年82歳でした。私がお会いできたのは1回だけに終わりました。

葬儀にあたり市から生花を届けると、業者から受け取りを拒否されたと連絡が入りました。長い間のH家とのわだかまりがやっと解消できたのが元に戻ってしまうのか。私は慌ててH家を訪ね、喪主にH・M氏との話し合いに同席した夫人を交え、その場の状況を伝え、生花は受け取っていただくことになりました。取り込んでいる最中です、帰り際、私の「葬儀に出席させていただきたい」には返事はなく、私は不安でH家を後にしました。

9月30日に行われた通夜式は、私の席が用意されていて係りの人の案内を受けました。そして、翌日の告別式も同様の扱いとなり、安堵しました。

〔今、市政で何が〕

西岡真一郎市長は3月16日の市議会特別委員会で「私は、これまで設計等を大幅に見直すことについては否定的でしたが、市議会が可決してきた決議や市民の皆様、市議会からの多様な意見を踏まえて、設計や建設の時期を大胆に見直すことも含め、市議会の皆様と協議を行わせていただくための場を設けさせていただくことをお願い申し上げます」との発言です。私は、4月11日号の本欄で「市長の庁舎建設方針は非常に重要であり、市民に隠さず『市報』で公にするのが市長の責務ではないでしょうか」と公表に消極的な市長に情報公開を指摘しましたが、5月1日号の市報2面の片隅に小さく「(前略)今後は、現在の実施設計および建設時期を見直すことも含め、市長と市議が協議するための意見交換の場を設置するとともに…」と掲載されました。しかし議会発言と比して市報での論調の落差が気になります。

この市長発言を受け5月10日、市長と全市議会議員による「庁舎等建設に関する協議会」を発足させ、座長に五十嵐京子市議が就任しました。協議会は10月を目途に、事業推進のための論点整理を目的にしています。

(つづく)

走り続けた16年(224)

街づくりに重要な お二人⑤

市は武蔵小金井駅南口再開発事業に重要な立場にあるH・M氏と駐輪場用地問題で昭和56年から4年間裁判で争い、結局、市が900万円の和解金と使用料を払うことで和解し、その補正予算も市議会で議決されました。

当時、放置自転車は首都圏において社会問題化しており、小金井市においても駅周辺は放置自転車が道路に溢れ、市民生活の大きな障害になるとともに景観上も問題でした。

市は、この4年間で放置禁止区域の設定、駐輪場の新設や有料化等に努め、一定の成果を上げました。そして、H・M氏に駐輪場用地を返還しました。和解条件から判断し、提訴した小金井市の敗訴の内容でした。そのため、H・M氏と市の関係は長い間、断絶状態が続いていました。

平成11年4月、私が市長に就任し、度々面会の申し込みに、数か月後、H家からお会いしたいとの連絡をいただきました。市長任期中小金井市の命運を懸けた会談は、URの伴襄(のぼる)総裁、JR東日本副社長でその後、りそな銀行会長になった細谷英二氏等何人かいますがH・M氏もそのお一人です。面会の場所は入院中の近隣市の大学病院です。当日はH・M氏の奥様が同行されました。

緊張の中で案内された病室に驚かされました。広いワンルームに応接室と寝室、リビングとキッチンがひとつになった病室で、変わっているのは大きなベッドが部屋の真ん中にあることでした。

H・M氏はそのリクライニングのベッドを起こして迎えてくれました。同氏は情報通で雄弁な方だと聞いていたのですが、病気のため声が出せない状況にあることは事前に聞いていなかったので驚きました。そのため、H・M氏とは筆談になりました。

まず、私から初対面の挨拶をし、H・M氏からはベッド上のテーブルでA4のメモ用紙にサインペンで書かれた質問に私が答える形になりました。

多岐に渡る質問が一段落した後、中央線の高架化と武蔵小金井駅南口の再開発についての私の考えを話しました。情報通のH・M氏ですので再開発の事業内容やこれまで何度も頓挫してきたことは百も承知です。問われているのは、私の本気度なのです。

私の何としても完成させたいとの発言に、メモ用紙には「中央線の高架は進めるべき、中央線で3度移転した。武蔵小金井駅はH(家)駅だ」とあり、再開発の記述はありません。私の「再開発で居宅はまた動いていただくことになります」に返答はなく、再開発に関して前向きな考えを期待したのですがそれには賛否を示されませんでした。

H・M氏所有の駐輪場用地の返還要請に対し、市がこれを拒否し裁判に訴え4年の法廷闘争は、市が和解金を支払うことで決着しましたが、この裁判騒動は私が議員になる以前のことからか、話題に出ることはなく、会談は順調に進みました。

私は、また体調のいい時、再びお会いすることを約束して病室を出ました。

一旦、病棟から出て再び病室に戻り、そして、H・M氏が筆談で使ったメモを記念にもらって帰りたいと話すと、同氏は傍らにあったメモ用紙をまとめ、満面の笑みで差出されました。その笑顔で、私はこの会談の成功を確信しました。

(つづく)

走り続けた16年(223)

街づくりに重要な お二人④

平成11年市長に就任した私の大きな課題のひとつは、武蔵小金井駅南口の再開発です。南口駅前は昭和37年の都市計画決定後、約40年間全く動かず、市民生活に悪影響を与えるとともに、計画区域内で営業する店舗や住宅の建て替えにも厳しい制限を設けており、加えて市の発展にも大きな妨げになりました。そのため、再開発は何としても進めなければなりません。問題は区域内に大きな権利を有するH・M氏の理解を得る必要があります。しかし、なかなか面会の機会が作れません。それは、同氏が病気で入院中であることと、昭和56年6月、就任早々の保立旻市長はH・M氏所有の駐輪場用地の返還要請に対して「土地使用に関する妨害禁止仮処分」を地裁に申請、翌日仮処分は認められましたが、H・M氏側からは「仮処分決定に対する異議の申し立て」が出されることになりました。

そして、同年6月の保立市長の初議会でH・M氏から借用した駐輪場用地の返還請求に市は放置自転車が氾濫し市民生活に支障となっていることから、この返還請求に応じず、逆に7月14日市議会に「土地貸借権確認請求に関する民事訴訟の提起」を提案、議会の議決を得て駐輪場用地の賃借権の確認を求めて裁判に訴えることを決しました。これは、H・M氏と市との対立となり、保立市長にしても、前市長星野平寿氏から引き続いて助役を務める大久保慎七氏にとっても厳しい判断になりました。それは、議会においても同様でした。その結果、市は7月21日に訴状を提出しました。

被告の立場となったH・M氏側は、本件に関し契約は成立していないと主張しているが、市は、諸般の事情により文書化ができなかったが、承諾書により成立しているという主張をしており、裁判は長引きました。

昭和59年9月、裁判官から「市長とH・M氏とで率直に話し合い、解決の糸口を見出すよう努めてもらいたい」との強い要請があり、当事者双方ともこれに異議なく了承しました。それを受けて、市長がH・M氏宅を訪問し2人で率直に話した結果、本年11月をもって、本件土地を明け渡すこと、和解で解決するため今後引き続き両者で話し合うことを確認しました。

10月19日第9回の和解協議が行われ、これまでの弁論及び若い協議の経過等を総合的に勘案し、裁判官から当事者双方に対し、原告(市)は被告(地主)に対して和解金1千万円を支払う。本件土地の原状回復はせず、現在の状況のまま明け渡す、という解決案が示されました。

昭和59年12月定例会の6日、武蔵小金井駅南口自転車駐輪場の和解について市長報告があり、11月9日に第10回和解協議が行われ、①59年11月をもって本件土地を現状のまま明け渡す。②市は地主に対し和解金900万円を支払う、という内容で和解が成立したとの報告がされました。

また、市は駐輪場の使用料が49か月分で2千895万7千350円、和解金900万円の計3千795万7千350円をH・M氏に支払い、それ以外に、弁護士費用が725万3千800円、印紙代35万8千600円、総計4千556万9千750円が市の支出となりました。

当局は円満解決と報告するが、H・M氏との間には大きな不信感が残りました。

(つづく)