走り続けた16年(224)

街づくりに重要な お二人⑤

市は武蔵小金井駅南口再開発事業に重要な立場にあるH・M氏と駐輪場用地問題で昭和56年から4年間裁判で争い、結局、市が900万円の和解金と使用料を払うことで和解し、その補正予算も市議会で議決されました。

当時、放置自転車は首都圏において社会問題化しており、小金井市においても駅周辺は放置自転車が道路に溢れ、市民生活の大きな障害になるとともに景観上も問題でした。

市は、この4年間で放置禁止区域の設定、駐輪場の新設や有料化等に努め、一定の成果を上げました。そして、H・M氏に駐輪場用地を返還しました。和解条件から判断し、提訴した小金井市の敗訴の内容でした。そのため、H・M氏と市の関係は長い間、断絶状態が続いていました。

平成11年4月、私が市長に就任し、度々面会の申し込みに、数か月後、H家からお会いしたいとの連絡をいただきました。市長任期中小金井市の命運を懸けた会談は、URの伴襄(のぼる)総裁、JR東日本副社長でその後、りそな銀行会長になった細谷英二氏等何人かいますがH・M氏もそのお一人です。面会の場所は入院中の近隣市の大学病院です。当日はH・M氏の奥様が同行されました。

緊張の中で案内された病室に驚かされました。広いワンルームに応接室と寝室、リビングとキッチンがひとつになった病室で、変わっているのは大きなベッドが部屋の真ん中にあることでした。

H・M氏はそのリクライニングのベッドを起こして迎えてくれました。同氏は情報通で雄弁な方だと聞いていたのですが、病気のため声が出せない状況にあることは事前に聞いていなかったので驚きました。そのため、H・M氏とは筆談になりました。

まず、私から初対面の挨拶をし、H・M氏からはベッド上のテーブルでA4のメモ用紙にサインペンで書かれた質問に私が答える形になりました。

多岐に渡る質問が一段落した後、中央線の高架化と武蔵小金井駅南口の再開発についての私の考えを話しました。情報通のH・M氏ですので再開発の事業内容やこれまで何度も頓挫してきたことは百も承知です。問われているのは、私の本気度なのです。

私の何としても完成させたいとの発言に、メモ用紙には「中央線の高架は進めるべき、中央線で3度移転した。武蔵小金井駅はH(家)駅だ」とあり、再開発の記述はありません。私の「再開発で居宅はまた動いていただくことになります」に返答はなく、再開発に関して前向きな考えを期待したのですがそれには賛否を示されませんでした。

H・M氏所有の駐輪場用地の返還要請に対し、市がこれを拒否し裁判に訴え4年の法廷闘争は、市が和解金を支払うことで決着しましたが、この裁判騒動は私が議員になる以前のことからか、話題に出ることはなく、会談は順調に進みました。

私は、また体調のいい時、再びお会いすることを約束して病室を出ました。

一旦、病棟から出て再び病室に戻り、そして、H・M氏が筆談で使ったメモを記念にもらって帰りたいと話すと、同氏は傍らにあったメモ用紙をまとめ、満面の笑みで差出されました。その笑顔で、私はこの会談の成功を確信しました。

(つづく)