さくら通信

赤坂御苑での園遊会

平成22年9月28日付で宮内庁長官羽毛田信吾氏から、私宛の立派な封書が届きました。

菊の紋章の入った厚紙の案内状、内容は簡潔で「天皇皇后両陛下には来る10月28日赤坂御苑において、御催しの園遊会にお招きになりますのでご案内申し上げます」というものでした。

これは事前に宮内庁から連絡も頂いていたものでした。

数日後に招待者名が新聞で報じられたことから、多くの人々からお祝いの言葉をいただきました。私は自治体の代表として招かれたものでした。

私は、市長車には家族は乗せないことから、妻と赤坂御苑に電車で向かいました。

冷たい雨が断続的に降っていました。

案内状に、出席の服装はモーニング コート、モンツキ紋付羽織袴、制服または 背広とあり、私は背広にし、妻も少数派の洋服でした。

現在、上皇上皇后であられる天皇皇后両陛下が会場を回りになるなり、皇太子 、皇族の方が随従されます。

私は、園遊会経験者のアドバイスで、テレビに映る会場の中央よりその先で、天皇皇后両陛下を迎えしました。

天皇は私の方に向かって「あいにくのお天気ですね」と言われましたので、私は「いいえ、お招きをいただき光栄です。小金井市から来ました」と応えると、陛下は私のそばに来られ、「中学生時代を過ごした小金井市は懐かしい」と話されました。

私は「是非、小金井市にお越しください」と申し上げ、前向きなお言葉をいただきました。

それを聞いていられた皇后陛下が、「陛下は時々小金井市を懐かしく話されます」とおっしゃられました。

また、その後に来られた皇太子殿下に、妻が「娘が東宮御所にお伺いしました」に、「どうしてお越しになりましたか。雅子はいましたか 」と続き、妻は 「青年海外協力隊の任地への出発前の表敬訪問で、雅子様ともお話ができたそうです 」と会話がはずみました。

天皇御一家との短い交流になりました。

会場は雅楽や洋楽が奏でられ、所々に用意されたテントには、茶菓や食べ物が用意されていました。

冷たい雨の寒い1日でしたが、私たちには一生の思い出になりました。

私の退任後、天皇皇后両陛下が小金井市、小金井公園にお越しになられました。

 

さくら通信

旧満州・中国東北地方は

連日新聞やテレビ等で、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるパレスチナ自治区であるガザへの攻撃で、子供達が瓦礫の中から医療体制も十分とは言えない施設に運ばれるのを見て、1日も早い終戦を願わずにはいられません。

私は9月22日から9日間、中国東北地方旧満州を訪ねました。

現在でも多くの日本人が満州に対しては、いろいろな思いを持っています。

それは満州国という傀儡政権を樹立した日本政府は、官僚や軍人、そして経済人や開拓団など民間人が政府の方針に従い、多くの日本人が満州に移住したことで、家族の中や親類等の中に満州で生活していた人がいるからです。

22日空路で着いたハルビンは、日本の初代内閣総理大臣伊藤博文が 安重根に暗殺された地であり、それはハルピン駅の1番線ホームで、その場所は一目でわかるように明示されており、韓国人である 安重根は、中国では抗日運動の英雄とされており記念館もあると聞いています。

中国ではバブル経済時、各地に博物館や美術館等を建設し、その中には日本の支配下にあった時の目を背けたくなるような残虐な写真が展示されています。

また、大きな公園や広場など多くの人の集まる所には石碑が建てられ、過去の日本の犯したことが記されています。

「 殴ったことは忘れても殴られたことは忘れないのが人間である」と言われますが、自虐的でなく長い間にわたる日本の抑圧や搾取という辛い過去にも、私たちは目を向けなければなりません。

 

さくら通信

中国東北地方(旧・満州)の旅

残暑厳しい中の9月22日から30日までの9日間、中国東北地方を訪ねました。

これは平成13年8月、母と妻と長女と私の4人 (次女は青年海外協力隊でアフリカの ガーナーに赴任中で不参加)で行って以来23年ぶりでした。

今回は妻が体調の関係から飛行機に乗れないため、気楽な一人旅になりました。

成田から空路哈爾浜(ハルビン)、そこから列車を使って綏芬河(スイフンガ)、牡丹江、哈爾浜、瀋陽、そして引き揚げ船の出港地の葫蘆(コロ)島と、旧満州を横断しました。

これは私が、昭和20年8月9日のソ連参戦により、ソ連軍から逃れるため母の背中で移動したコースです。

8月9日 国境の綏芬河市を後に奉天(現・瀋陽)着いたのは、玉音放送の8月15日を過ぎて9日間もかかったのが、今回は時速300kmの中国高速鉄道で、わずか6時間半で走り抜けました。

私が中国に行くことに、中国を知り私をよく知る人は非常に心配しました。

それは、中国語はニーハオとシェイシェイの二言だけで、買い物は現金を使わないキャッシュレス社会でもあり、列車の乗車は予約制であることなどから、アナログ人間の私が無事に帰って来れるかが心配の種でした。

しかし、いつもの「なんとかなるさ」の精神で、無事に目的を果たすことはできました。

私も後期高齢者になり元気な時に旧満州を訪れ、昨年末に母が102歳で亡くなったことと、私も元気で80歳を迎えることができたとの報告と、綏芬河市の天長山で亡くなったとされる父の慰霊のためでした。

旅は当初の計画通り、無事終えることができました。

私の感じた中国情勢については、機会をみてご報告させていただきます。