走り続けた16年(265)

現業職員の採用で大荒れの市政

昭和60年6月、2期目就任早々の保立旻市長は暴力的な激しい労使交渉の末、市長辞職を覚悟して5人の現業職員の採用で職員組合と合意した。

木造の旧東庁舎2階の市長室は庁議等の会議も開ける広いものでした。その市長室で与党会議も開かれます。議員定数26人中与党議員は17人と安定し、市長選の大勝もあり円滑な市政運営が期待されましたが、現業職員5名の採用に与党議員は硬化し与党会議は議論になりました。

当局の最大の弱点は労働組合の違法なスト等による市民サービスへの影響です。

精神的にも肉体的にも苦痛を伴い自尊心を傷つけられるような労使交渉に加え、ストを回避することから5人の現業職員の採用に同意したのでした。

それは、昭和60年3月31日の市議選で当選した与党議員の公約は行革の推進であり、さらに2か月後の5月26日の市長選での保立市長の公約も行政改革のさらなる推進でした。市長2期目就任の挨拶も「選挙を通して財政構造が従来同様脆弱であってはどんな施策、事業も砂上の楼閣にすぎない。財政再建こそ本市にとっての最優先課題であると再確認した」でした。それに対し、現業職員の採用は議員も市長も「公約に反する」ものでした。そのため与党会議では市長にも大久保慎七助役にも厳しい言葉が発せられました。この様な状況から保立市政はスタート時点から与党が一枚岩とはなり難い状況でした。

この状況を踏まえて大久保助役は10月12日に辞表を提出し31日付けで辞任しました。

大久保助役の辞任に伴い、12月定例会の12月10日東京都総務局の主幹であった市川正氏の助役が混乱の中、議会で同意されました。

12日、本会議場で議会事務局職員からメモが渡された。それは、目の前にいる保立市長からのもので「昼頃に市川新助役が市長室に来る、混乱がないよう対応してほしい」とのメモでした。私は目で合図して議場を後に市長室に入ると、すでに職員に占拠されており罵声が飛び交う中心に市川助役がいました。すでに、手の付けられない状況でした。

昼休みに入り、市長が市長室に戻るとさらに職員が増え大混乱になり、市長室入口付近で黒川輝秀副議長が混乱の中で市職員組合執行委員のK・S主事に押し倒され打撲を負い被害届が出された。組合側はでっちあげを主張したが後日、小金井警察署は傷害の容疑で東京地検八王子支部に書類送検した。

これにより、与野党の対立は激化しさらに職員組合との対立も続き市政は混乱した。

議会には副市長が都から来ることに反対の陳情が出されていたがすでに副市長は議会で議決されていたことから本来、見なし不採択で処理されるものを革新政党の質疑の主張や職員組合の抗議行動の際に発生した事件の調整で議会は会期を延長し空転が続いた。

会議規則では午後5時を過ぎて会議を続ける場合は時間延長を諮る必要がありますが、12月24日午後5時を直前に議会運営委員会が開かれ、時間延長を諮ることを決めたが午後5時の時点で本会議場への出席議員が定足数の過半数に達せず流会となり、議案、請願・陳情計27件が審議未了廃案となりました。

市民には分かりにくい混乱が続きました。

(つづく)

走り続けた16年(258)

大混乱での『行対審』の設置

2期8年間続いた革新市政に代わり、昭和54年5月1日、日の丸の掲揚と君が代の斉唱で初登庁した星野平寿市長、課題は全国ワーストを続ける人件費問題を解決し、財政健全化を図ることでした。

星野市長最初の定例会となる6月議会での施政方針で「今任期中の最重要課題として小金井市政の再建、財政の健全化に取組む所存であり、職員定数の削減を果たし効率的な行政執行に努めたい。そのため、市民による『行財政対策審議会(行対審)』を設置し、その答申を得て順次改善に着手したい」と述べ、財政難から経費を伴わず実施可能な市民課の昼休み窓口業務の開設、職員の出勤時間の厳守や名札の着用を行い、庁舎管理規則を制定すること等を具体的に示しました。

この施政方針の目玉は『行対審』の設置であり、星野市政の根幹となる施策です。

行対審は市長の諮問機関で、委員は16名、学識経験者が4名で一般市民を12名とし、2年の任期で、審議会への諮問内容は、1、事務事業の見直し 2、組織機構の改善 3、職員の勤務条件の見直し 4、補助金等の見直し 5、財源確保のための市民負担の適正化等で、今後、行財政の改善を進めるにあたり、点検や洗い直しを必要とする事項を諮問するとしています。これまで長い間の悪しき慣習を改めることには大きな抵抗があるのは想定されることです。これを、学識経験者や市民の意見を参考に改善するというのです。

この設置条例の提案に対し本会議では答弁調整による休憩が繰り返されたこともあり3日間に渡る質疑後、総務委員会に付託され2日間の質疑でも結論が出ず、関連の条例改正や補正予算とともに継続審査になりました。

職員組合はこの行対審の設置に猛反対で、市議会各会派に申し入れるなど様々な反対運動を展開しました。

継続審査になっていた行対審設置条例は9月の定例会で、3、に提示していた「職員の勤務条件の見直し」を削除する修正で条例案等は可決されました。さらに、16人の委員も決定したことから計画を3か月遅れて12月22日午後2時から、市役所第一会議室で第1回の行対審が開かれることになりました。これに反対し会議を阻止しようとする市職員組合や革新系団体のグループ約500人が市役所前庭で抗議集会を開くなど抵抗があらわになったことなどから、内々で会場を武蔵小金井駅西側にあった商工会館に移すこととした。2時近くになり変更を知った反対派約100人が商工会館に行くと大半の委員は入っていたが、遅れてきた委員は入室を拒まれる小競り合いとなり足を蹴られて怪我をしたという委員が出るなど大混乱のスタートとなりました。

市長から全委員に委嘱状が手渡されて会議が開始され、互選で会長に元市議会議長の信山重由氏を、会長職務代理者に元小金井ロータリークラブ会長の保坂正文氏を決定。初顔合わせの場でしたが、反対グループとも顔合わせになりました。

2回目の行対審は55年1月22日公会堂の会議室で行われ5項目の改革を諮問しました。

その後も混乱の続く中で審議会は続けられ、9回目の11月20日では今後、答申作りに入ることを確認したが、12月議会で、市長が突然辞職するという大問題が発生しました。

(つづく)

走り続けた16年(256)

人件費率全国ワーストに

昭和33年の市制施行以来、小金井市の職員組合は「西の京都、東の小金井」と評される程に強力な組合となりました。法律で定められている職務・職階による「職務給」ではなく、年齢によって給与を定める「年齢給」とする「37協定」を実現させたり、職務命令違反で懲戒免職処分になった職員組合の執行委員長を復職させるなど、強力な組合体制が形成されていました。

46年4月の統一地方選挙は革新ブームもあり、永利友喜氏の当選により小金井市にとって初めてとなる革新市政が誕生しました。この革新市政実現には職員組合の積極的な支援もありました。

その組合の支援を受けて当選した永利市長にとっては厳しい市政運営が強いられることになりました。自分たちの支援で当選させたとする組合は、当然市長を支えていくものと思われたが、前号でお知らせした通り、社会常識を逸脱した暴力的手法を使ってでも理不尽と思われる要求を次々に提案「誰のお陰で当選できたと思っているのだ」との考えでその要求を次々に実現させていったのです。

それは、市の業務は市の職員でという直営主義で、次々と職員の正職化を進めました。それによる人件費の増は「人件費は事業費」との考えによるものでした。地方自治体の第2条第13項『地方公共団体は、その事業を処理するに当たっては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最小の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない』と規定されています。これは、行政経営の基本中の基本であり、これすら守られていなかった8年ということになります。

これに危機感を持った中町、東町、本町の一部の青壮年で組織された中山谷青壮年会の若者が立上がり、48年に「小金井市は市民の納税額に対して教育費など市民への還元が少ない」と近隣市と比較した数字を機関紙で証明しました。その原因が職員増のための人件費にあることも明らかにしています。

また、革新市政を憂え警備員の正職化運動を問題視した全市的若者による「菊栄会」も組織され、積極的に活動されました。私も後年参加しました。

さらに、小金井青年会議所も具体的な財政健全化策を機関紙で提案していました。

昭和52年11月24日の日本経済新聞(日経)で51年度の全国662市の財政状況がランク付けで詳細に発表されました。一面に大きな見出しで、人件費比率ワースト1位が小金井市であることが報じられたのです。さらに、見開きの2ページを使って詳しく解説されたのです。議会もこれを看過することにはならず議論になりました。しかし、人件費問題は一朝一夕に変えられるものではなく、翌53年10月15日の日経で2年連続して人件費ワーストが報じられました。

その後も人件費問題には歯止めがかからず昭和50年代の10年間でワーストが8回、2位3位が各1回と最悪の状況が続きました。

昭和48年に発生した第4次中東戦争による石油ショックが狂乱物価を招き、石油製品やトイレットペーパーの品不足等で市民生活が大変な時代でした。

昭和54年4月の市長選挙は、前回552票の僅差で惜敗した星野平寿氏が4千票差で勝利し、2期8年に及んだ革新市政にピリオドが打たれました。

(つづく)

走り続けた16年(14)

財政健全化への闘い⑥

小金井市政を長い間混乱に陥れた、異常な過去に触れてみます。

先ず、昭和38年4月10日、小金井市の労働運動の象徴でもある小金井市職員組合執行委員長が「職務命令違反」を事由として懲戒免職になり、辞令は内容証明で自宅に郵送されたのです。

その後、5月の臨時市議会で組合執行委員長の解雇問題が議論になりましたが、「業務命令違反」の具体的事由が示されず、「処分が不満なら人事委員会等の審査を」との答弁になり、懲戒免職という処分の重さから明確答弁が必要だったのではと考えます。

これにより「不当首切り撤回闘争」を展開する組合を一層勢いづけてしまいました。

5年後の昭和43年4月30日、「昭和38年4月10日付をもって行った免職処分を、昭和38年10月9日までの停職処分に改める」との辞令が交付され、懲戒免職が撤回されました。人事委員会の斡旋等、何があったかはわかりません。

しかし、これによって組合はさらに強力になり、その人は、苗字の下に天皇と付けられて呼ばれ、カリスマ的存在になりました。

次は、昭和46年4月、革新市長永利友喜氏が当選し、組合の望む革新市政がスタートしました。これにより多摩清掃公社の直営化、学童擁護員(みどりのおばさん)、警備員、庁内清掃、電話交換、ボイラー等の正職化が進み、一挙に職員の増員が進み、市財政を圧迫する人件費比率ワースト日本一になる要因になりました。

684人の職員定数を徐々に1136人までの増員を認めてきた、議会の責任も大きなものがあります。

また、昭和49年第4回臨時会で、議員の質問に永利市長は「5月27日午前9時頃、東庁舎入口で市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ、足蹴りで左足に打撲を受け、全治3週間の診断を受けたのは事実です」と答え、さらに「労使慣行の正常化と、本人の生活権と将来を考え(法的)手続きはしない」と答弁しました。

さらに、昭和49年7月27日深夜から翌日未明にかけて、市長と助役が人事異動の対象者の自宅を訪問し、異例の辞令交付となりました。これは、職員組合の猛烈な反対運動で、庁内で交付できない状況だったからです。

しかも、8月10日、組合の要求に屈服し人事は白紙撤回されました。市長固有の権限である人事権が組合の反対で行使できず、さらに、異動対象の一人の机や椅子が朝になると庁舎裏庭に放り出されている始末でした。

この様な中で、革新市政2期目がスタートして間もない昭和50年7月、夏季手当交渉をめぐって市長と折り合わないことから、組合が保育園、学校給食、浄水場等を除く全職員に「一斉半日休暇」を指示し、市長は「業務に支障をきたす一斉休暇は認めないで拒否すること」と41人の全課長に命じましたが、全員が市長の業務命令を無視しても、組合の意向に従うのです。

信じられない事象に対し、驚くような決着の連続で、市民のための市役所とは到底言えない状況が長く続き、次代への大きなツケを残したのです。
(つづく)