走り続けた16年(124)

市議会議員として⑤

昭和60年3月31日に執行された小金井市議会議員選挙は、翌4月1日に開票され、私の得票は1千151票で26の定数に19位で当選させていただきました。そして、4月5日から任期が始まり、新しい議会構成は与党系議員が17人と安定した議会構成になりました。当選した与党議員の選挙公約は人件費を削減しての財政再建でした。

時を同じく3月31日市役所に定年制が導入され37人の職員が退職しました。この欠員補充の労使交渉は市長選が終わるまで休戦となっていました。

市議選が終えて間もない5月26日は市長選挙です。私自身の選挙公約である財政再建を実現させるためにはなんとしても保立旻市長の再選が必要でした。

私の選挙でお世話になった方々への恩返しもあり、つたない選挙の経験ですが、若さを武器に全力で市長選挙に取り組みました。

保立市長の選挙公約も財政の健全化であり、民間委託など行財政改革の推進でした。

選挙の結果は、行革を訴えた保立旻さんが1万8千710票で岩井幹明さんの9千731票にダブルスコアに近い得票で勝利しました。

市議選、市長選と共に、財政再建のための行財政改革の推進を訴えた候補者が当選し、市民の期待は明確になりました。

保立市長の2期目がスタートしました。待ち構えていたのは市民の期待と、選挙のため休戦していた職員組合との労使交渉でした。

連日のように労使交渉が行われ、欠員の補充を要求する組合と欠員不補充を主張する保立市長との交渉は平行線が続きました。

保立市長から「団体交渉が行われる時は、夜中でも連絡のとれるようにしてほしい」との要望を受け、徹夜ででも団交が終えるまで議会の控室で待機していました。それ以降、大久保市政においても給与や人員等の団交が行われる時は、常に市役所内で団交が終え、結果報告があるまでの待機は議員時代の14年間続きました。

団体交渉は交渉と言えるものでなく、管理職に組合員が大声で要求を怒鳴り散らすという状況で、その怒号は会議室の外の廊下まで響き渡っていました。

また、市長を取り囲み「お前…」呼ばわりする抗議行動は、指揮命令系統を失った反社会的勢力を思わせるもので、革新市長は職員に蹴られ全治3週間の怪我をしたこともあり到底、市民には想像できない光景でした。

精神的にも肉体的にも苦痛を伴う激しい抗議行動が連日続く中、保立市長から「予算定数もあり、簡単に職員は採用できない」との趣旨の発言がありました。正式の団交ではなく混乱の中での発言であったにも関わらずこの一言に職員組合は食らい付いたのです。

それは、昭和60年度の職員の予算は1千30人で措置されており、職員数は1千25人なので予算上5人の欠員補充が可能となり職員組合は勢い付きました。

職員組合は予算措置されている5人の補充に的を絞っての交渉となりました。

保立市長は「予算定数もあるが、選挙公約もあるし、与党議員の考えもある」と一蹴すべきでしたが、真面目に対応したことで苦境に追い込まれました。

(つづく)

走り続けた16年(123)

給食の委託化と都議選の顛末⑤

学校給食の民間委託を進めるには多くの課題がありました。

平成17年、第二次行財政改革大綱(改訂版)を策定し、その117項目の中の一つに学校給食調理業務の民間委託が盛り込まれました。

平成18年9月、中学校5校の内2校を、そして、残りの3校は平成24年4月に民間委託を実施しました。委託した中学校給食には検証委員会を設けて検証しましたが、委託に伴う検証による指摘はありませんでした。

偶然、緑中の給食を食べにいった平成25年2月14日、「今日はバレンタインデーです。給食室からデザートを一品多くプレゼントします。男の子も女の子も楽しんでください」とのメッセージがあり子どもたちは歓声をあげて大喜びでした。とても、直営では考えられないことです。私は、次に進める小学校給食の民間委託に自信を持ちました。

2年間に40回を超える労使交渉を続け、平成25年4月12日、私と自治労小金井市職員組合(市職)執行委員長とのトップ交渉で妥結しました。それは、本当に長い道程でした。それまで、事業の見直しは組合員の多い市職の合意の基で委託を進めてきましたが、この時は、議会の理解を得られ易くするため共産系の小金井市役所職員組合(市職労)の合意を得るため努めるよう、現在、自民党市議会議員となった河野律子総務部長に指示しました。私も、入院中の執行委員長を病院へ見舞い、車椅子を押して面会室で小金井市の将来等について繰り返し意見交換をしました。

苦難の末、ついに協議が整い4月30日、その市職労と市役所会議室で労務担当管理職と組合三役が揃い、私と執行委員長が9月から小学校5校の委託の合意文書に調印となりました。これは、小金井市政においては画期的な出来事でした。

5月中旬から、教育委員会の職員を主に、9月から5校委託・4校直営の新しい小学校給食の経営方針を小学校各校の保護者への説明に奔走しました。

6月議会に、9月から5校を委託するための予算7千800万円の補正予算の提案を庁議で決定しました。

条件は整いました。後は、6月の議会で議決を得るだけです。5月28日、企画財政部長が民主党(現・立憲民主党)の2議員への説明に赴くと「進め方が拙速なので反対です」との回答でした。この予算を否決させることはできないとの思いから、私が予算の可決にむけて動いたのが一連の経過です。10年近く心血を注いで取り組んだ給食の委託化を「拙速」の一言で片付けられることには到底ならなかったのです。

西岡真一郎市長の選挙公約である67億円での庁舎、福祉会館、図書館等の6施設複合化は全く変質しました。行革の1丁目1番地と言ってた保育園の民間委託も早々に2年間の延伸となり、さらに、職員削減等で年間40億円の生み出しも全く見えません。そこに、残り任期が僅かになった時点で、急きょ残されている小学校4校の給食の委託を職員組合に提案しました。真の行革を標榜し本気で取り組むなら、もっと早く提案し実現に動くべきであり、スローガン政治に陥っていないか危惧するところです。

(つづく)

走り続けた16年(118)

選挙公報は正しかったか

6月3日の市議会本会議で、自民党の吹春やすたか議員が、小金井市の財政健全化の進捗について西岡真一郎市長に質問しました。

それは「西岡市長は先の市長選挙の選挙公報で『小金井市に閉塞感があるのは、財政難からであり、その理由は、行財政改革が進展していないことにある』とあるが、平成10年度と、平成27年度の決算を比較すると職員数は915人が671人と244人の減、人件費は98億8千200万円が59億800万円と実に39億7千400万円の減、人件費比率は32・3%が15・3%と半分以下である。また、経常収支比率も106・5%が90・8%まで下がっている。

稲葉市政の16年間の職員給与は減額の連続です。職員は市の危機的財政状況を理解し財政再建に協力したことを西岡市長が理解できないのは残念です。

稲葉市政では調整手当を平成16年度から21年度まで6年かけて小刻みに10%から12%にアップしています。これは、市の給料表を都に合わせる際、都の12%に合わせるという約束で、財政が厳しいため小刻みになったそうです。地域手当に名称が変わり、国基準の変更により24、25年度で再度10%に下げています。西岡市長が平成27年12月市長に就任し、わずか1週間で職員組合と15%までのアップを約束したのとは各段の違いです。

この16年間の経常収支比率と人件費比率の改善率は多摩26市でトップと言われています。この結果は、職員や議員の協力があって達成されたものですが、市長の認識は選挙公報に書かれた通りの認識であるか」と吹春議員が問うています。

これに対して西岡市長は正面からの答弁は避け、一定評価しつつも、小金井市行革市民会議の答申の中の「主要で困難な課題は先送りされている感がある」との一片の記述から判断したもの、と責任を転嫁しています。しかし、この答申の最後は「当市民会議は、第一線で働く職員の接遇は極めて良好で、職員の基本的なポテンシャルも相当に高いものと確信している」と結ばれているのです。

私はこの質疑をユーチューブで聞いていて非常に残念な思いになりました。行革が進んだことは数字できちんと証明されており、誰の目にも明らかです。西岡市長もこれらの状況を知りながら、何故、事実と異なる事象を選挙で一番目につく「選挙公報」の、そのリード文に書いたのかです。西岡市長の相手候補は「市政の継続・発展」を謳っていました。この選挙戦を有利に導くため、前市政の評価を矮小化したとしか思えません。

財政再建のための行革は私にとって生命線です。これを身を切って懸命に支えてくれた職員や議員、ご理解をいただいた市民に対しても事実を語らなければならないのです。

西岡市長の市長選の公約である、図書館を含む6施設複合化は67億円で新たな市民負担はない。行革で年間40億円を生み出すことや、小金井市の30年後のグランドデザイン策定など市民との主要な約束は雲散霧消です。政治の不信感はこの辺から生まれるのです。

私は、先の市長選挙は公平・公正、フェアに行われたか疑問を持たざるを得ません。

(つづく)

走り続けた16年(117)

市議会議員、そして、市長として④

小金井市は市民の所得が多いことから、一人当たりの個人市民税は常に全国でもトップクラスにあります。しかし、公共施設の不足など市民サービスは、近隣市と比較しても大きく見劣りする状況が長い間、続いていました。市民の納めた税金がきちんと市民に還元されてないということです。これは、昭和46年から53年までの8年間の革新市政による大量職員の採用により、人件費が大幅に増大したことに起因するものです。そのため、昭和50年代の10年間の人件費比率は全国ワースト1位を8回、2位、3位を各々1回と惨憺たるものでした。市民のための市政ではなく、職員のための市政になっていたのです。

地方公務員である職員の身分は非常に手厚く保護されており、一度採用したら定年まで勤めることになり、人件費を削減することは非常に難しいのです。そのため、人件費による財政難は私が市長になる平成11年まで延々と続いていました。

昭和60年の小金井市議会議員選挙では財政再建のための行革を訴えた候補者の多くが当選しました。私もその一人であり4月5日から議員としての活動がスタートしました。

そして、5月26日の保立旻市長の2期目の市長選挙が目前に迫っており、そのための準備に追われました。

市長選挙は共産党が推薦し、社会党が支持する革新候補との一騎打ちとなりました。

保立市長の掲げた選挙公約の第一は行財政改革の推進であり、民間活力の導入による職員数の削減でした。相手の革新候補はバラ色の選挙公約でしたが、市民は市議選に続く選挙ということもあり、市政の状況を正しく理解され、過ちは繰り返されませんでした。選挙結果は保立旻候補が1万8千700票、相手候補は9千700票と、革新が強いといわれる小金井市ですが、ほぼダブルスコアでの当選を果たしました。

そして、5月28日保立市長の2期目の登庁となりました。それを迎えるのが「西の京都、東の小金井」と表される強力な職員組合の手荒い歓迎でした。

保立市長の1期目は、職員の退職に伴う欠員の補充を抑制し、職員削減を進めてきました。そして、選挙直前の昭和60年3月末の60歳定年制の実施による職員37人の大量退職で出た、その欠員を新規職員の採用で埋めさせることが組合の運動でした。市長が決まるまでの間の休戦が解けて、労使の激しい戦いが始まりました。

先の市議選で当選した与党議員の全てが財政健全化のための行財政改革を主張し、保立市長の選挙公約も同様なので市の進むべき方向は定まっています。

私も、職員組合が強いのは知っていましたが、市長に対し一職員が罵倒するなどという常軌を逸した労使関係が続いていたとは思いもしませんでした。

人員問題の労使交渉が開始されるに当たって、保立市長から私に「連絡の取れるところにいてほしい」と要望されました。当時は携帯電話のない時代ですから、自宅か議会の控室で待機するかで、素早く対応ができることから市役所にいることにしました。そこで、市民の目の届かないところで反社会的団体を思わせるようなすさまじい光景が展開されていたのです。

(つづく)

走り続けた16年(116)

市議会議員、そして、市長として③

本来、住んでいる自治体によって市民サービスに優劣があってはならないことです。

昭和59年度一般会計決算は小金井市民一人当たりの個人住民税が651市で5位、多摩地域では武蔵野市に次いで2位の納税をしながら、市民サービスは近隣市と比較して大きく劣っていることに市民は怒らなければなりません。まして、その原因が人件費にあり、その比率41・2%は全国ワースト1位なのです。市民のための市政とは到底いえない行政が長い間続いていたのです。この状況を打破するため、昭和60年に予定される市議会議員選挙に、立候補する決意をしました。

昭和58年の土屋正忠氏の武蔵野市長選挙や、就任直後、大混乱の中での高額退職金是正の公約を果たす土屋市長の言動を目の当たりにし、私は市政は変えられるし、小金井市政も変えなければならないと確信しました。

小金井市に転入し10年が過ぎたとはいえ、親戚一軒友人一人いない町に越してきての選挙は厳しいものがありました。相談する人もいない中、ひとりで決断するのです。

昭和60年の新年を迎えるに当たり、その年賀状に立候補を決意したことを表す文言を記載しました。しかし、それを投函する勇気が出ず毎日年賀状とにらめっこが続きました。そして、元旦に届くタイムリミットの日、もう後戻りはできない、と自らに言い聞かせ、ポストに入れました。

新しい年を迎え、地域の有力者や市内4か所に加入している商店会の役員を訪ね、私の考えに理解を求めることから始めました。知名度が全く無く、話を聞いてもらえれば上出来と言う状況でした。その様なとき、市議会議長も務められ、地元で非常に信頼の厚い大久保耕吉氏の支援が得られたのです。

大久保氏からは「稲葉さんは地元に溶け込んでいます。郷土を愛する若い政治家が育つことに期待しています。緑町の地域代表として頑張って下さい」とのメッセージはすぐにリーフレットに使わせていただきました。

また、2年前に武蔵野市長に就任し、飛ぶ鳥を落とす勢いの土屋正忠氏の応援もいただくことで泡沫候補からは脱却しました。

私の選挙公約は行財政改革が主体です。それは、職員定数の削減、給与制度の是正、業務の民営化の推進、昼休みの窓口業務の開始等、活力ある市役所づくりです。また、三鷹—立川間の高架化や駅周辺整備など街づくり、教育や環境問題、そして、情報公開を積極的に行うことを約束しました。

自分の日頃の持論をマイクを通して言えることは大変に気持ちの良いことですが選挙の結果については非常に不安でした。多くの候補者の選挙戦での訴えは行財政改革でした。

選挙戦残り1日となった金曜日夜、土屋市長と票読みをしました。少ない票田を積み上げた結果、1千150票で中位で当選と判断しました。その時の土屋市長のメモは今でも大切に保管しています。

3月31日が投票日、翌日4月1日の開票で、私の得票は1千151票、19位で当選させていただきました。

市議選が終えて間もない5月は市長選挙です。自らの公約実現には保立旻市長の再選がどうしても必要です。

(つづく)