走り続けた16年(4)

小金井市長選挙④

昭和60年3月、私は小金井市議会議員選挙に当選させていただき、地方議員としてスタートしました。その2カ月後の5月、保立晃市長は2期目となる選挙で再選を果たしました。私も選挙対策委員会の一員として、その一端を担いました。その保立市長も、昭和62年3月に突然の辞職(当欄2月11号に経過を掲載)。

自民党は市長選に大久保慎七氏を擁立しました。大久保氏は市職員、助役と豊かな経験を持つ地方自治のベテランでした。自民党が出馬を要請する1週間程前に税理士でもある大久保氏は事務所開設のため「大久保税務事務所」の看板を出したばかりでした。市長選挙には新人3人が立候補し大久保氏が当選、6代目の市長に就任しました。設置したばかりの税理士事務所の看板は黒のビニールで覆われ、その後、撤去されました。

平成3年4月の大久保市長2期目の選挙を間近に控えた平成2年12月議会に「平成3年3月に小金井市職員に支給する期末手当に関する条例の一部改正について」が提案され大混乱に陥りました。私は、本会議でも総務委員会でもこの議案には賛成できないと主張しました。その理由の第一は、財政が厳しい中で人事院等の勧告を0.1カ月上回る、年間5.45カ月(平成27年度は4.2カ月)のボーナスの支給であること。また、団体交渉は11月28日が11時間45分、29〜30日が23時間50分、3日〜5日にかけては17時間35分と23時間50分の長時間の拘束となり、市長をはじめとする交渉担当にとって反人道的問題である交渉だということ。さらに、東庁舎2階の市長室周辺に所狭しと貼られたビラも外すことができず、ストライキの実施に対し処分もできない当局の対応だからです。

この様な状況での労使合意は到底認められないというのが私の主張であり、自民党8人の会派の意見でした。結局、総務委員会で採決されず継続審査となり、議会は大混乱、最後は本会議流会(自然閉会)となり、補正予算8件は審議未了廃案となりました。

大問題に発展した本議案も、越年した3月議会で自民党の7人が賛成に回り、共産党や社会党など野党の賛成により、可決されました。

私は、対等・平等・平常の労使交渉での妥結とはいえない。また市民に理解が得られる内容でもないと、反対を貫きました。

この騒動を契機に労使関係は健全化交渉へと大きく改善されていったと思います。

自民党小金井支部の事務局長を務める与党の議員が、市長選挙直前に市長の提案する議案に反対し、議会を混乱させたことには、それなりの覚悟が必要です。私は、事務局長辞任を申し出ましたが認められず、議案に賛成するよう積極的調整に動いた保守系の長老の人たちからは、今度は辞任を翻意するようにとの働きかけになりました。さらに、大久保選挙対策委員会の事務局長を受けてほしいとの意向も受けました。

大久保市長とは、膝を交え真剣に市の将来や行革について話し合い「今回のことはお互い水に流す」と決着。結局、選対の事務局長をもお受けすることにしました。

選対の事務局長は遣り甲斐のある仕事でした。オーケストラのコンダクターの気分で全力を尽くしました。選挙結果は大久保市長が再選を果たしました。

(つづく)