財政健全化への闘い⑤
地方自治体の職員に定年制度が導入され、小金井市では昭和60年3月31日、職員の定年に伴う退職条例が施行されました。
同日、小金井市議会議員選挙も行われ、4月5日から私も市議会議員としての任期が始まりました。
また、5月26日、保立旻市長の任期満了に伴う小金井市長選挙が行われ、保立市長が再選を果たしました。
再選した保立市長には大きな課題が待っていました。
それは、職員の欠員補充の問題です。小金井市の人件費問題解決のため不補充を貫いてきた保立市長でしたが、定年制の導入もあり、欠員の補充を求める職員組合の要求は非常に激しいものでした。交渉の過程で当局側から「簡単に職員は採用できるものではない、予算の制限もあることだし」との発言がありました。
昭和60年度の職員の予算は1030人で措置されており、職員の実数の1025人とは5人の乖離(かいり)があったのです。この発言に、5名の欠員補充が可能だと職員団体は勢いづきました。
その様な時、保立市長から相談したいこともあるので、団体交渉等の時は、連絡が取れるよう近くにいてほしいと依頼され、私は、団体交渉等の間は市議会自民党の控室で待機し、その交渉の経過を徹夜になっても見守っていました。
小金井市の労働組合は非常に強いとは聞いていたが、社会常識を逸脱する労使交渉の現状を見聞きし、その実態は想像を超える驚きと怒りの連続でした。一部職員が市長を取り囲み、その耳元で、お前呼ばわりの聞くに耐えない言葉で怒鳴ったりするのです。管理職は、口を出せば火に油を注ぐことになるので、遠巻きに時の経つのを待つだけでした。
市長は市長室に缶詰状態になることもあり、打ち合わせを理由に私が連れ出すこともあり、心配する家族が迎えに来ることもありました。また、時には職員が集団で市長の自宅にまで押しかけ抗議することもありました。
団体交渉は怒鳴り声が廊下にも響き渡る程で、会議室から出てくる職員は声をからしていることも多々ありました。徹夜が続く交渉は、精神的にも肉体的にも限界を超え、正常な判断ができないような状況下での妥結もありました。
3月1日号の当欄にその一部を記載しましたが、これが「西の京都、東の小金井」と称された所以なのかと思いました。
欠員補充の激しい交渉が続く中、明け方近くの午前3時過ぎ、自民党の控室に来た保立市長が、私の目の前で選挙管理委員会事務局長に直接電話し「私が辞めたら、後は法的にどうなるのか」と聞いているのです。
私は、あまりの驚きに言葉が出ませんでした。再選されて、まだ1カ月前後なのです。それ程激しく厳しい交渉だったということです。
そして、間もない7月5日号の『市報こがねい』に、現業職員若干名の募集の記事が小さく載り、その後、5人の現業職員が採用されました。団体交渉の経過を知る私は複雑な心境でしたが、与党は硬化しました。
それが10月31日の大久保慎七助役の辞職につながるのです。
(つづく)