走り続けた16年(277)

最大の危機が財政再建を

30数年に渡る小金井市の財政危機は異常に多い人件費にあり、その原因は多すぎる職員と給与制度にあった。それは、全国ワーストの人件費比率や経常収支比率に表れていた。

平成9年度は定年退職する33人の職員の退職金の財源が無いことから東京では初めてとなる退職手当債(借金)を活用することになった。借金の許可に国と都は市の給与制度等の改正を条件とした。これには職員組合も飲まざるを得ず35年間小金井市を蝕み、地方公務員法にも反する同一年齢同一給(年齢給)にピリオドが打たれ「職務給」が導入された。

また、同時期に退職を願い出た2人の退職金が工面できないことから4月中旬まで有給休暇を使って在籍してもらい、新年度の予算から支払うという財政状況だった。

行財政改革を主張する議員は近隣市等と比較し200人以上の職員削減を主張していた。

財政計画から退職金が払えなくなる時が早晩くることから当局は6年頃から職員削減を打ち出していた。職員組合も財政が破綻した場合は自治権の放棄につながることから職員削減の協議に応じざるを得なかった。

7年(財)日本都市センターの専門家による「小金井市行政診断調査報告書」においても200人の職員が過剰であると報告された。

また、7年4月の市長選挙で大久保慎七市長は200人の職員削減を公約に三選を果した。

平成7年6月当局は197人の職員削減計画を組合に提案し、覚書を締結した。これは、7〜8年かけて完結させるというものでした。

当局は、給与制度の改正と職員削減を合わせて14年度までに51億5千万円の経費削減となると説明していた。

平成11年の市長選挙で私の公約はさらなる職員削減でした。当選後の記者会見で、私はさらに110人の削減を発表しました。

また、公約年金制度の改正により共済年金についても13年4月から年金の満額受給が65歳に引き上げられることから11年7月地方公務員法の改正があり、一般職の定年退職者が働く意欲と能力のある職員に改めて再任用として採用することで、新規採用はせず行革を進めることで組合とも合意した。再任用職員は職員定数に入りません。再任用制度は公務員優遇だとの意見が与党からも出て、議論は白熱したが与野党入り交じった採決で賛成12反対10で可決された。

この再任用制度の活用も行財政改革の後押しの力となった。

その結果、昭和50年前後の革新市政による常軌を逸した大量職員採用で、職員は1千130人。人件費比率は45・2%、金額は103億9千万円がワーストで、私の就任前の平成10年は892人で32・3%、98億8千万円だったが、27年の退任時は671人で16・2%、60億3千万円と大きく改善された。

私は昭和60年、小金井市の財政再建を果たすことを目的に市議会議員となり14年、そして市長として16年、議員や職員の身を切る協力、そして、市民のご理解でやっと他市並みとなり、最大の公約を果たしました。西の京都・東の小金井と評された職員組合も市の倒産を意味する財政再建団体への転落は自治権の放棄となり、国の監視下で財政再建に取り組むことになり、少しの金の使い道も制限されることから、自主再建の道に向けお互いに力を合わせた結果です。

(つづく)

さくら通信

ゴミ拾い(その3)
ゴミを拾った16年

「小金井市は美しいまち」と市内外から評価されるには、公園や道路等にゴミが落ちていないことや、放置自転車がないことです。

それは財源を必要とせず、私たちが少し意識を変えることで、日本のシンガポールが実現できるのです。

市議会議員時代、市役所へは主に自転車で通っていました。

空き缶やペットボトル等、大きなものは拾って前かごに入れて市役所に持ち込みました。

市長になってからは、歩いての通勤になりました。

メガロスの東隣のマンションから市役所まで、歩いて約30分の通勤は、私には適当な距離でした。

中央線の北側を武蔵小金井駅北口へ、それを通過し駅西の跨線橋を渡り市役所へ行きます。

高架完成後は、駅南口から市民交流センター(宮地楽器ホール)と、ヨーカドーの間のフェスティバル コートを清掃して市役所へ向かいました。

最初は恥ずかしかったが、周りの人の顔を見ないようにすればすぐになれるものです。

これを16年間、雨の日を除いて市役所に行く日は毎日続けました。

今振り返ってもよく続いたものだと思います。

市長退任後は週1回のペースで、武蔵小金井駅南北のロータリーから高架線の北側を東小金井駅へ、そして、北南のロータリーのゴミを拾って武蔵小金井駅に戻ります。

また、毎月第2日曜日は、平成23年に小金井市環境賞を受賞した「小金井市を美しくする会」の人たちと、場所を変えて市内のゴミ拾いをしています。

私のゴミ拾い はウォーキングを兼ねたものです。

市議会は平成9年12月定例会で、議員提案の「まちを美しくする 条例」を制定しました。

いわゆる「ポイ捨て禁止条例」です。

また、平成15年3月定例会で路上禁煙区域を設け、歩きタバコを禁止する条例改正をしました。

この条例には罰則規制があり、違反者には2000円の過料を課すとありますが、適用したことはありません。

私が市長に就任した25年前と比較して、ポイ捨ての量は大きく減少しました。

これは、小金井市が美しくなってきたことの証しではないでしょうか。

さくら通信

ゴミ拾い (その2 )
野口健の エベレスト 清掃活動

アルピニストの野口健さんは、平成11年のエベレスト登頂成功で、世界7大陸の最高峰を最年少での登頂を果しました。

当時、野口さんは亜細亜大学の学生で梶野町に住んでいました。エベレスト登頂は3度目の挑戦で達成されました。

このベースキャンプは、各国の登山隊が廃棄した大量のゴミの山であり、野口さんはその清掃活動にも取り組みました。

ある日彼から電話があり、橋本龍太郎氏に合わせてほしいとのこと、橋本事務所と連絡を取り橋本さんに会わせました。

野口さんの手土産は、橋本さんが隊長を務めたエベレスト登山隊の名前の入った空の酸素ボンベでした。ゴミの山の中から出てきたものです。

私は橋本さんの虫の居所を心配したのですが、面会を終えた野口さんから、喜ん受け取ってもらいました、との報告で安心しました。

その後、麹町の橋本事務所に行くたび、応接室の棚の真ん中に飾られているそのボンベを確認していました。

野口さんには、市の職員との交流や、市立緑小学校の生徒と浴恩館公園の周辺の清掃活動などもしました。

小金井市環境賞を制定す際、私はサブタイトルに「野口健賞」を提案しましたが却下されてしまったのは残念でした。

現在野口さんは、エベレストや富士山の清掃活動をはじめ、多方面で活躍されています。

彼の結婚式は、公務のため出席できなかったのは残念でした。

 

さくら通信

ゴミ拾い(その1 )
星野哲郎の空き缶拾い

私の選挙や政治活動を支えてくれた作詞家・星野哲郎(有近 哲郎)氏は、夜明け前の暗い時間に梶野町の自宅を出られて、小金井公園で空き缶拾いをされていました。

荒天の時、奥様から「今日はやめたらと言われると、ムキになって出かけるんだよ」と笑って話していました。

その日に拾った空き缶の数と、それまでの合計を記入した手帳は、細かい数字でびっしりでした。また、節目の数になると連絡をいただいていました。

星野さんには、小金井市の教育委員も務めていただきました。

平成9年12月定例会での任命には退席9議員で、他は全員が賛成だったのが、平成13年12月議会では、賛成14反対7退席2で同意されましたが 、7人の反対はショックで、星野さんは教育委員を辞退したいと伝えてきました。

市役所近くの星野哲郎事務所で話しあったが翻意に至らず、数日後に手紙が届き「 私にも名誉も誇りもある。あなたに頼まれると断りにくいので、これ以上説得しないでほしい」という内容の手書きの手紙が届きました。

いかに粘り強い私も諦めざるを得ませんでした。

その後、星野さんは蟹工船も作詞しているんですね、の声もあったが後の祭りです。

腹の中で「みだれ髪などを歌うなよ」と言っていました。

星野さんは、小金井市最初の名誉市民てす。

 

さくら通信

専決 処分と減給

私は市長に就任して約1ヶ月後の5月31日、自らの給料を10%、助役、収入役、教育長は5%を減額、さらに6月に支給される期末手当( ボーナス)は、市長の私が30%、助役以下は10%減額する条例を議会に諮らず専決処分しました。

この専決処分には、直前の市長選挙で応援してくれた議員からも厳しい指摘を受けました。

6月7日に開会する定例会に提案して、議決を受けて執行すべきだという意見でした。

私は、ボーナスの基準日が6月1日であったことから決断したのですが、議会を通さずに決定することに、議会は厳しい反応でした。

令和4年9月定例会で西岡市長は、私立保育園2園を廃園する条例を議会が議決せず、継続審査にしたことから専決処分をしました。

この専決処分に賛成の議員2人で、反対が20人で不承認となりました。

この不承認の結果を受けて西岡市長は辞職しました。

議会が不承認 なら元に戻せばいいので、辞職する理由が分かりません。

その後、地方裁判所でこの専決処分は「違法で無効」との判決が下されましたが、白井市長は控訴せず判決は確定しました。

そのため、廃園問題は収まる気配もなく、今でも混乱が続いています。

私の減給の専決処分は、「本市の厳しい財政状況を踏まえて、市長としての姿勢を明確にするため」が事由であり、財政再建を進めるうえて職員に痛みを伴う協力を求めるなら、先ず自らが痛みを感じる対応をすべきとの考えからでした。

この専決処分を承認するか否かの採決は、賛成13反対9退席1で承認されましたが、自らの給与を下げるにも議会は専決処分には懐疑的なのです。

それ以降、給与の減額は全て議会の議決を得て行いました。

因みに、私の市長在任の16年間で減額した給与の総額は、1千698万円でした。