私の生い立ち

私は、昭和19年(1944年)11月26日、旧満州(中国・東北地方)牡丹江省穆稜(ムーリン)で布施孝彦として生まれました。父は南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員でした。助役の資格を得たことから、勤務地がソ連(ロシア)との国境の街である綏芬河(スイフンガ)に移りました。昭和20年8月9日、ソ連がこの戦争に参戦したことから、母と私は父を残して特別列車で逃げました。父の最後の言葉は「この子は生まれてこないほうがよかった。どうせあなたたちも日本までは帰れないだろう。この子より先に死なないように」だったそうです。父28歳、母24歳、私は9か月でした。

10年前の夏、母と妻と長女と私の家族4人(次女は青年海外協力隊でガーナに赴任中)で穆稜と綏芬河を訪ねました。穆稜は中国の典型的な田舎町で、私の生まれた満鉄のレンガ建ての官舎は、その時でも、周辺の建物の中では目立つ位で、中国の人が住んでいました。

綏芬河は一転、素晴らしい景色の中にヨーロッパ文化を取り入れたリゾート地で、とても中国のイメージとは異なる美しい街でした。私たちの住んでいた建物は取り壊され、マンションに立て替え中でした。

父の職場でもあり、最後の別れとなった綏芬河駅はロシアとの国境の大きなターミナル駅で、引き込み線には木材を積んだ貨車が多く見られました。そのプラットフォームに立った時、56年前、迫ってくる砲弾の音を背に、死を覚悟し、妻子を見送るその時の父の気持を考えると涙が止まりませんでした。

昭和21年8月、終戦から1年かけて栄養失調ではあったようですが、無事日本に帰ってきました。

私の脳裏になる最も古い記憶は、間口1間、奥行1間半の物置での生活でした。千葉県銚子の母の実家の近くでした。母の実家は手広く商売をし、たいへん繁盛していましたが、私は母の洋裁や編み物の内職で生活していたので、今考えても極貧の生活でした。

数年前、小金井公園のラジオ体操会場で、「稲葉さん、私、あなたの小さい頃の事を知っているのよ」と、話しかけられました。私は「いつ頃のことですか」とお聞きすると、正にその時の、タダで借りていた物置の時代でした。「この頃のことを話されるのは嫌ですか」と言われるので「嫌ではありません、もっと詳しく知りたい位です」と申し上げました。その方は貫井北町3丁目にお住まいで、私より少し年上ですが、私の過去を鮮明に記憶されていることには驚きました。最近お会いしていないので私の記憶を補強しておかなければならないと考えています。

この物置は、私が大学2年の夏休み、母の実家でアルバイトをしている時、家主さんが「孝ちゃん、物置を壊すので見ておいたら」と、声を掛けてくれました。細い路地に面していたので時々は目にしていたのですが、あまりの小ささと貧弱なのに改めて驚きました。物置は数時間で解体されました。

小学校に入学する前、母は私を連れて再婚しました。母と私の戸籍は父の実家の八日市場市(現・匝瑳市)にあったのですが、私の戸籍を抜くことに父の実家は同意しませんでした。そのため、稲葉家5人と私、布施孝彦が一緒に住む形になりました。

学校では先生が気を使って稲葉と呼びますが、公式の文書などを貰うときは布施となります。そのため、いつもからかいの対象でした。田舎のことですので、時には、父が引き揚げてくるという噂が立つこともありました。帰ってきて欲しいと強く願いつつ、そうなったらどうなるのだろうか。弟も生まれているし、と、子ども心にも考えていました。貧しい時代でもあり、家の中は複雑でしたので、現在、子育てで社会問題化されることの多くは体験したと思っています。満州からの着の身着のまま、命懸けで私を連れて引き揚げてきたわけで、母の愛情は十分に感じていましたが、私に厳しく当たることで家の中が上手くいくことを子ども心にも分っていましたが、人目に付かない所で、声を殺して泣くこともしばしばでした。母は辛かったと思います。

小学5年の時、学校の先生の勧めもあり、母は父の実家の同意を得ずに、強引に養子とし私の姓を変更しました。後々、問題もあったようですが、私には布施より稲葉の方が多く使われていたので特に抵抗感はありませんでした。

中学時代は学校が荒れていたこともあり、楽しい思い出はあまりありません。育ての父が事業に成功し、貧乏からは脱しましたが、私の環境に変わりはなく、小学校、中学校時代は今思い出しても楽しいことは少なく、辛いことの連続でした。

高校時代は、自分にとって最も楽しかった時期だったと思います。自由な校風の学校で、尊敬する先生方、多くの友人にも恵まれました。

大学はワンダーフォーゲル部に属し、山登りと旅行に熱中しました。学校に行くより山登りや旅行をすることの方が多く、ほとんど勉強しない日々でした。特に3年生の時は、大阪商船の貸客船の船底に乗せてもらって太平洋を渡り、1年間アメリカで仕事をしながらの無銭旅行をしていました。帰ることがなかなか決断できないほど楽しかったです。

勉強をしたのは4年の1年間でした。卒業のための勉強であり、単位を取るだけが目的でした。早く社会人として自立したいと思っていただけに、卒業が決まった時、「やったー」と大声を出して喜んだのを覚えています。  大学4年から田無市(現・西東京市)に住んでいたこと、それが小金井市民になるきっかけになりました。

以上が、社会人になるまでの私の履歴です。