走り続けた16年(194)

『八月や六日九日十五日』

今年も世界平和を考える猛暑の8月を迎えました。本年が例年と決定的に違うのは、東京を日本を、そして、世界中を震撼させている新型コロナウイルスが猛威を振るい、感染力の強い変異ウイルスデルタ株により感染が拡大し、4回目となる緊急事態宣言が発令されていることです。

その中での平和の祭典、東京オリンピック・パラリンピックの開催です。感染拡大防止のため、ステイホームでパラリンピックの競技をテレビの前で応援し、そして、平和の尊さを確認する8月にしたいと考えます。

国民の90%が戦後生まれとなり、戦争を体験し、戦争がいかに愚かで残虐であるかを次世代に伝えられる人々が次第に少なくなりました。報道機関を通しても、この8月を戦争の悲惨さ、平和の尊さを考える機会であることを願うものです。

昭和19年11月に満州(中国、東北部)で生まれた私は、昭和20年8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連軍は私たちの住むソ満国境の牡丹江省綏芬河(スイフンガ)に侵攻し、母と私は近付く砲弾の音で大混乱の中、南満州鉄道会社(満鉄)の用意した列車で、満鉄社員の父を残して国境の街を離れました。私の人生を大きく変えた日でした。

父の葬儀は小学校5年生の時、父の実家で行われ、私の名前は布施から稲葉に変わっていました。葬儀に同行した父の親友でもあった伯父に「骨箱の中に何が入っているの」と尋ねると、「一枚の紙と石が…」との答えでした。墓碑の没年月日は昭和20年8月15日とあり、享年28歳です。

民間人も靖国神社に奉られることがあると知り、父の名前があるか問い合わせました。「御祭神調査の件(回答)」とする文書が靖国神社から届きました。

その文書は、布施 忠次 命 一、階級・陸軍兵長 二、所属部隊 歩兵二百七十一聯隊 とありますが、これは誤りです。父は満鉄の社員であり、軍人でないので改める手続きが必要です。三、死歿年月日・昭和20年8月15日(戦死) とありますが、これは、推測ではないかと思っています。また、四、死歿場所・綏芬河天長山 とあります。この天長山については初めて知った地名です。「天長山」をネットで検索すると次のように記載されています。

天長山の悲劇 「第2次世界大戦末期、旧満州・綏芬河の天長山の防空壕で女性や子どもを中心に数百人といわれる犠牲者が出た。生還者は3人。死者数は、旧南満洲鉄道社員や家族でつくる満鉄会によると、一般邦人350人、国の調査では300人と詳細は不明。中隊長以下全滅した兵員数も不明。市街地から徒歩30分の場所にあった山頂の防空壕は地下3階、千人収用で当時は『東洋一』といわれたが、ソ連軍の猛攻で崩壊した。生還者によると、兵士や避難した邦人は壕の安全性と「必ず援軍がくる」の言葉を信じて豪を頼り、ソ連軍と戦った。西日本新聞」とあります。

昨年7月からコロナ禍で延期している20年振りの綏芬河に行くとともに、この天長山にも行かなければなりません。区切りある人生です。自分で片付けられるものは片付けなければと思っています。

私にとっての戦後はまだ終えていません。

(つづく)