走り続けた16年(176)

「或る障がい者の死」①

半年前、令和2年8月13日、ひとりの障がいのある女性が桜町病院のホスピスで亡くなりました。その人の名前は山ヵ絵里さんで、病名はがんでした。

絵里さんが桜町病院のホスピスに入院したとの連絡を受け、福祉団体の職員である吉岡博之さんと10時に待ち合わせて病室に入ると、すでに意識はなく10時20分、医師により死が宣告されました。享年61歳でした。

絵里さんは昭和33年11月、東京都港区で生まれ、26歳まで父恭一さんと母と3人で目黒区に居住してました。

絵里さんは幼少期に脳性麻痺より四肢麻痺の重度の障害を負うことになりました。6歳から15歳までは特別支援学校に通学し、卒業後は、都内の障害者施設に入所しましたが、施設になじめず、折り合いが合わないことから短期間での退所となり、絵里さんと恭一さんは障害者施設への通所に対して不信感を抱いていたようです。

昭和59年、絵里さんが26歳の時、家族3人で小金井市前原町2丁目に転入しました。

障害者の通所施設への不信感から絵里さんはお母さんが家庭で介護していました。

平成7年2月、その母が亡くなったことから、絵里さんは4月から父の送迎で緑町の小金井市障害者福祉センターに通所されることになりました。センターでの絵里さんは友人もできて楽しい日常となり生き生きとした生活を送りました。そのお父さんも病気がちとなり通所はセンターの送迎になりました。

絵里さんの障害は、身体は1種1級で、知的は1種2度という重いハンディキャップを負っていました。室内での移動は自らの四肢を使っての四つ這いでの移動でしたが、体力が減退し、四肢を使っての移動も次第に困難になりました。

絵里さんのセンターでの10年間、私は市議会議員として、そして市長としてのお付き合いになりました。

日常的に介護を要する状況ではあるが、ボードの絵や文字を指し示すことや顔の表情、頭部の動かしなどにより意思の疎通は成し得るもので、療養過程で接している人や場所などの記憶はあり、笑顔で喜びの表現をされていました。平成16年、父恭一さんの体力の衰えから、八王子療護園に入所しました。

平成24年11月25日、自宅で山ヵ恭一さんが死去しました。生前から全財産を小金井市に寄付したいとの考えを持っていて、それは、遺言書にも記されていました。その結果、市は相続財産の受遺者になりました。

遺言書によれば、財産整理に要した費用を除いた残額のすべてを「小金井市の障害者福祉事業に寄付する」とあり、また、遺言書には障害をもち、八王子療護園に入所している娘の絵里さんが「将来的に生活が維持継続できるようにしてほしい」との記載がありました。市は、不動産の処分を含む財産整理を行うことになり、前原2丁目七軒家通りに面した自宅を解体し、更地にした上で売却しました。絵里さんの成年後見人から、当然ですが絵里さんの遺留分を取得したいとのことで協議の結果、相続財産を双方が分割し取得することになりました。

身内の人がいないことから、恭一さんの納骨は奥さんの眠る多磨霊園みたま堂に絵里さんとセンター所長の吉岡博之さんと私で納骨しました。

(つづく)