「或る障がい者の死」②
令和2年8月13日、身寄りもなく重度の障がいのある山ヵ絵里さんが桜町病院で亡くなりました。享年61歳と短い人生でした。
昭和59年、絵里さん26歳のとき両親と3人で前原町に越してきました。自宅で母の手厚い介護を受けていましたが、平成7年その母が亡くなり、小金井市障害者福祉センターに父恭一さんの押す車椅子での通所となり、10年間多くの友だちもでき楽しく生き生きと暮らしていましたが、絵里さんも体力の衰えや恭一さんの病気で、平成16年絵里さんは八王子市館町の八王子療護園へ入所しました。
平成24年11月25日、自宅で山ヵ恭一さんが死去し、遺言書には全財産を「小金井市の障害者福祉事業に寄付する」とありました。さらに、八王子療護園に入所している絵里さんを思い「将来的に生活が維持継続できるようにしてほしい」との記載がありました。
年が変わった平成25年。遺言書に沿って前原町2丁目のご自宅を解体し更地にして売却するなど、山ヵさんの全財産を金銭に換えました。絵里さんの成年後見人から遺留分を請求したいとのことで、1億円を超える相談財産は市と分けあうことになりました。
夏が過ぎ遺産処理も終えたこともあり、絵里さんの入所する八王子療護園を市の担当職員と訪問しました。
事前に連絡しての初めての訪問でしたが、なんで小金井市長が来るのか。絵里さんに何があったのかと施設内は大騒ぎだったと後で聞かされました。
絵里さんは、施設の人たちの献身的な介護でベッドで横になったままでしたが、元気な姿に安心しました。ヘルパーの方から「絵里さんが『市長を知ってる』と言ってます」と障害者センターをしょっちゅう訪問していた私を覚えていてくれたのは嬉しかったです。センターでは亡きお母さんの作った人形の縫いぐるみを大切にしていましたが、八王子療護園では熊の縫いぐるみに変わり、たくさん持っていました。
その時、支援者の方々から言われたのは「絵里さんがボードで『吉岡さんに会いたい』と指差すのですが、吉岡さんという方をご存知ですか」と問われました。私は、絵里さんが会いたがる吉岡さんとは、10年間、障害者センターで、お世話になった吉岡博之さんだと確信し「今度お会いする機会を作ります」と伝え、施設を後にしました。
秋になり、絵里さんのお母さんの眠る多磨霊園みたま堂に絵里さんと関係する親しい人たちで恭一さんの納骨をしました。
その場で、かねてより計画していた絵里さんと吉岡博之さんの10年ぶりの再会となり、その喜びは一入のものでした。その後、皆で前原町の回転寿司で食事をしました。絵里さんは食べたい物をボードで示し、付き添いのヘルパーさんがそれを半分に切って食べさせるのです。この回転寿司には絵里さんが小金井に来た時には必ず寄るようになりました。
これを契機に吉岡さんと私は度々療護園を訪れることになりました。それは、全財産を小金井市に寄付するにあたって、絵里さんが「将来的に生活が維持継続できるようにしてほしい」との遺言が常に頭にあったのです。そのため、施設で家族揃っての会食などのイベントには吉岡さんと一緒に参加しました。
(つづく)