走り続けた16年(181)

「或る障がい者の死」⑥

身体、知的の重度の重複障害のある山ヵ絵里さんが、小金井市障害者福祉センターに通所を始めたのは平成7年、絵里さんが36歳の時でした。それまでは区内での障害者施策に懐疑的だったため家庭での介護でしたが、母玲子さんの逝去により通所することになりました。センターでは室内での移動は四つ這いで、日常的に介護を要する状況ですが、ボードの絵や文字を指し示すことや顔の表情や頭部を動かすことで意思の疎通を図ることができ、周辺で接している人や場所などの記憶はあり、笑顔や発する声で喜びを表現することができました。センターでは、物を作ったり絵を書いたりするなどして過ごし、多くの友だちもでき彼女にとって最高に楽しい10年間でした。これは、絵里さん自身はもとより父恭一さんにも喜びであり、それは、遺産の全てを小金井市の障害者福祉事業に当てて欲しいという内容の遺書にも示されていました。

しかし、年齢とともに絵里さんの障がいがさらに重くなり、同居し送迎する父も病がちになり、やむを得ず平成16年、八王子療護園に入所しました。

療護園でも職員の手厚い介護を受けていましたが、平成22年50歳の時にがんを発病し、その後、転移が確認されていました。

療護園での家族を含めた行事には障害者センターの吉岡博之所長とともに参加していました。また、遠足と称して施設から外出するときは小金井市を希望し、多磨霊園で両親の墓参りや、回転寿司で食事をし、障害者センターで昔の仲間や職員に会ったりすることが彼女の喜びでした。

絵里さんが年とともに判断力が薄れているとのことから、遺産の公正証書作成に取り組みました。それは、単に国庫に帰属させるのでなく、父恭一さんの遺言書にあった「二人が亡くなった後の財産はすべて小金井市の障害者福祉事業に寄付する」との記述に従って、平成28年11月28日八王子療護園において公証人、医師等関係者十数人により、民法第969条等に基づいて作成されました。

その後も絵里さんと私たちの交流は続いていましたが、令和2年7月、絵里さんの病状の悪化から入院が必要となり、彼女の小金井に帰りたいとの願いから、桜町病院のホスピスに入院しました。その際、療護園側から稲葉と吉岡が面会に来たら会わせて欲しいとの伝言があったと後で聞かされました。しかし、連絡の不備やコロナ禍もあって、私たちが絵里さんの入院を知ったのは1か月以上も後で、危険な状況に陥ってからでした。

吉岡さんと私は、8月13日午前10時にコロナ禍にもかかわらず、面会が許可されました。10時病室に入るとすでに意識はなく、間もなく10時20分、医師が死亡を宣告しました。吉岡さんが「稲葉さん、絵里さんは私たちが来るのを待っていたんですね」との言葉が耳に残ります。

葬儀は後見監督人と協議し、私の友人にお願いし、18日、親族はなく、後見人や後見監督人、支援者や吉岡さんと私。市役所から西岡市長と二人の部長の参列で葬儀を行いました。その後、親しい人たちで多摩葬祭場で荼毘に付しました。また、父母の眠る多磨霊園みたま堂への納骨は後見監督人、吉岡さんと私、それに、公正証書作成など種々の法的手続きに尽力した前市議会議員の河野律子さんの4名で行いました。

(つづく)