走り続けた16年(129)

市議会議員として⑩

昭和60年4月に市議会議員になった私は驚きの連続でした。

5月の市長選で圧勝した保立旻市長が安定した与党体制で市政が運営されると確信していたのが、6月に現業職員5名採用を決めたことから一転与党体制に不協和音が生ずることになりました。

また、その数か月前の2月13日、小金井市議会で「二枚橋焼却場の建て替えと同時に他の場所での第2工場の建設計画を同時並行で進めるべき」との趣旨の決議が小金井市議会全会一致で可決されました。これは、小金井市にとっては違和感のないものでしたが、調布、府中の両市には到底受け入れられる内容でなく、保立市長はその狭間で苦悩することになりました。

人口増の中、大量生産、大量消費の社会風潮もあり、全国的にごみ量が増えることから、各地で「ごみ戦争」と呼ばれる紛争が勃発するようになりました。それは、迷惑施設と目される焼却場や最終処分場の必要性は誰もが認めるところですが、自分の近くでないことを望むのも無理からぬ話ではありました。そのような状況から、焼却場等は自区内処理が原則となる風潮が広がりました。

二枚橋焼却場は3市の市域に跨がるという微妙な立地にあり、約1ヘクタールの土地に150トンの炉が4機設置され、環境問題からも地元還元施設などを考えても非常に狭隘でした。また、二枚橋は調布飛行場の飛行区域に当たることから煙突の高さは60メートル以内に制限されており、北側の小金井市域には「はけ」と呼ばれる段丘の宅地開発が進んだことから他の2市との焼却場への考えは異なるものでした。

この二枚橋焼却場の「近代化(建て替え)計画」は先の小金井市議会の決議により完全に暗礁に乗り上げました。小金井市としては当然と思える決議でも、調布、府中の両市への思いが至らなかったのです。建て替えに当たって、それが環境に及ぼす影響を事前に予測と評価を行い必要な措置を講ずるための環境影響調査(環境アクセス)の予算も小金井市の同意がなく執行不能になりました。

結果的に、この決議で二枚橋の3市による新焼却場施設の建設は不可能となりました。同様の課題を持つ多摩各市や一部組合は、小金井市の対応に対して厳しい評価でした。

個人的にも親しかった調布の吉尾勝征市長は、二枚橋組合から脱退し、三鷹市との協同処理の方向に切り替えたときの言葉は「稲葉さん、調布は脱会するのではなく、小金井市から追い出されたんだよ」という認識で、三鷹市との共同処理に向かいました。

私が市長に就任し、8年後の平成19年3月には施設の老朽化で煙突や建屋の崩落の危険が増したことから焼却を終了しました。

そこで、多摩各市や一部組合に、小金井市の可燃ごみ処理の支援要請をする際、決まって聞かれたのは、昭和60年の『二枚橋の決議』の私の対応でした。

当時私は一市民で、その2か月後に市議になったことを伝え、そこから交渉が始まるのでした。もし私がこの決議に参加してたら小金井市のごみがどうなっていたかと思うとぞっとします。その時、議員だったら賛成票を投じていたと思うのです。

(つづく)