走り続けた16年(136)

令和元年の終わりにあたり

令和元年も残りわずかになりました。皆様にとってどの様な年だったでしょうか。楽しい思い出の多い一年だったことと思います。

本年も台風の襲来により日本中が大きな被害を被りました。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。

また、世界各地に自然災害が発生し、大きな被害をもたらしました。私たちの利便性やより快適性を求める生活が、地球環境に負荷を与えていることも原因にあることと思います。世界中のすべての人々が、私たちと同様の生活をしたら、地球温暖化や食糧問題など世界的危機が急速に進むことでしょう。私たちの利便性や快適性は発展途上国の人々の苦しみや犠牲の基にあるのではないでしょうか。今、生活を見直す時にあると思います。

本年は新元号が「令和」と決定され、天皇陛下ご即位による国事行為で、国全体が慶祝の気持ちに包まれる中、つつがなく新時代がスタートした歴史的な1年になりました。

令和の時代が世界中が平和で、誰もが豊かな時代であることを願わざるを得ません。

また、ラグビーW杯は日本チームの活躍もあり、そのプレーに日本中が感動し熱狂に包まれました。あまりラグビーに縁のなかった人々も、ラグビーの魅力に引き込まれたのではないでしょうか。ワンチームやノーサイドの言葉やオールブラックスの「ハカ」も楽しませてくれました。

吉野彰・旭化成名誉フェロー(71)のノーベル賞授賞も明るい話題でした。リチウムイオン電池の基本構造を発明した吉野氏は私たちの生活を変えてくれたことになります。

吉野氏の明るい人柄もありますが、少年時代に先生から『ロウソクの科学』の本を薦められ読んだのが、科学の道に進む動機付けになったというのも、子どもたちに夢と希望を与えることになることでしょう。

平成19年3月、二枚橋焼却場の稼動停止以来、可燃ごみの処理を近隣市等の施設での広域支援に頼ってきた小金井市ですが、この年末の19日から日野、国分寺、小金井の3市で作る浅川環境清流組合が日野市内に建設する新可燃ごみ処理施設が完成し、試験運転を開始します。本格的稼働は来年4月からになり、「ごみ非常事態宣言」が解除されることになるでしょう。

市政においては、西岡真一郎市長のガバナンスやコンプライアンスの欠如が議会から指摘されるなど、悪戦苦闘の1年でしたが、12月の市長選挙では西岡市長が圧勝しました。今後の市政運営に注目したいと思います。

11月、後期高齢者になった私にとって、この1年は『走りつづけた16年』の本の出版や市長選挙などで忙しい1年になりました。

年間の歩行距離をスマホの歩数計で年間4千キロメートル以内に押さえる目標は約3千700キロメートルと達成できました。

いよいよ、年の瀬を迎えました。どなたも明るく楽しいお正月を迎えるには、火災に遭わないための対応が必要です。また、年末は空き巣やひったくり、悪徳商法や詐欺などの犯罪が多く発生しますので注意が必要です。

迎える新年が世界中が平和で、皆様にとって素晴らしい1年になることを心からご祈念申し上げます。

(つづく)

走り続けた16年(134)

市議会議員として⑭

昭和60年5月30日、保立旻市長の2期目の任期が多くの難題を抱える中でスタートしました。そのひとつがごみ問題でした。

それは、粗大不燃ごみの破砕処理施設の建設と老朽化した可燃ごみ処理の二枚橋焼却場の建て替えです。

人口増が進み、ごみ量が急増する中でごみ処理への対応が遅れていました。ごみ処理施設の必要性は誰もが認めるところですが、建設場所の選定は簡単ではありません。

当時、粗大不燃ごみはロードローラー等で潰したものを選別して西多摩郡羽村町(現・羽村市)の砂利を採取した砂利穴に投棄していました。管理型の最終処分場でないことから、当然トラブルも発生していました。

昭和59年4月、西多摩郡日の出町に町のご理解により大規模な管理型の不燃ごみの最終処理場が建設され、多摩25市1町の住民の排出する不燃ごみと焼却灰が埋め立て処分されることになりました。

しかし、日の出町の最終処分場に不燃ごみを搬入するには15センチ以下に破砕するなど厳しい基準が定められましたが、小金井市がこの基準をクリアーするのは困難でした。それは、日の出町に搬入する多摩25市1町の自治体で唯一、粗大不燃ごみの破砕処理工場を持たないため、処分する不燃ごみは手選別され、日の出町に搬送されるのは市民が排出する20%程度で、その他は、民間等で別途処理される状況でした。

保立市長の1期目の任期残り僅かな昭和60年5月7日、貫井北町の住民の理解が得られたことで、10月工事に着工し、昭和61年9月の完成に向けて動き出しました。結果的には計画変更があり12月の稼動となりました。

保立市長1期目から続いていたこの問題も土地取得から10年を経てやっと解決することになりました。

これにより、市民が排出する粗大不燃ごみは破砕され、全量が日の出最終処分場へ搬入され安定的に処分されることになりました。それは、現在も続けられています。

昭和61年12月に稼働したこの中間処理施設の管理運営も問題でした。市は、職場検討会で検討中であることから9月に入っても決められないのです。私はこの施設の民間委託を主張しましたが叶いませんでした。結果は、正規職員5人、委託3人、臨時職員1人となり、強力な労働組合にも議会にも配慮した対応になりました。

困難を乗り越えての稼動でしたが、搬送の効率性を考えてプラスチックの減容装置の導入は、熱を加えるため悪臭が発生し近隣住民に迷惑をかけることになりました。また、不燃ごみに紛れたガスボンベの爆発事故や、アルミの化学反応なのか原因不明の火災により一晩中燃え続けたこともありました。これらも、近隣住民のご理解により継続して運営してきましたが、稼動も30数年となり建て替えの時期も迫ってます。蛇の目跡地への庁舎建設もあり、リサイクル事業所等も含めた清掃関連施設整備計画を早めに示して市民の理解を得ていく必要があると考えます。

小金井市の大きな問題は、組合が強力だったため労働条件の変更だけでなく管理運営までも組合の合意を得るという悪習が行政執行の妨げになりました。

(つづく)

走り続けた16年(131)

市議会議員として⑫

小金井市は市域が狭いこともあり、し尿やごみ処理など嫌悪施設は市内だけで処理することが困難で、近隣市等に協力を依頼することも多くあります。

かつて、し尿は畑の肥料として使われてきましたが、都市化による住宅建設が進み、畑の肥料での処理が困難になりました。

昭和38年、武蔵野・小金井・村山地区衛生組合の湖南処理場(し尿)が西多摩郡村山町(現・武蔵村山市)に完成し安定した処理ができるようになりました。その後、公共下水道が完備しましたが、現在でも工事やお祭りなどの簡易トイレ等のし尿処理は、武蔵村山市の構成5市による湖南衛生組合で処理されています。

また、昭和33年から調布、府中、小金井3市から排出される可燃ごみは3市に跨がる二枚橋焼却場で平成19年まで約50年間処理されました。この間、3市の可燃ごみが種々の課題を持ちながらも処理できたことに施設周辺にお住まいの皆さんに感謝の気持ちです。

一方、不燃ごみは昭和55年以来3年間の約束で西多摩郡羽村町(現・羽村市)の砂利穴に投棄し、二枚橋焼却場で焼却できない可燃ごみも投入されていました。

それが、昭和58年9月、小金井市の埋立てごみの中に乾電池や蛍光灯、体温計などの有害物質が混入されているとの情報から、搬入が停止される事態も発生しました。

昭和59年4月からの不燃ごみや焼却灰の最終処分は西多摩郡日の出町のご理解で、日の出町での処分が現在も続いています。

この日の出町への搬入には当然ですが厳しい条件が付されていました。それは、有害ごみや有価物は除去し、15センチメートル以内に切断し、圧縮して搬入しなければならないのです。しかし、この諸条件を満たすには粗大不燃ごみの中間処理施設が必要ですが、搬入する自治体で唯一小金井市だけが、この施設がないのです。

市は、中間処理施設建設のため貫井北町1丁目に昭和50年代に用地を確保しましたが、取得にあたって地元住民の不信感や、集会所や公園設置の約束が履行されていないことから、これらの不信解消に長い年月を要すことになりました。

そのため、小金井市の粗大不燃ごみはロードローラーで潰したりしたものを手選別するなどし、日の出町に搬出する量は排出量の20%程度となり、他は別途処理していました。

私が議員になって最初の定例会である昭和60年6月の議会で、建設について地元の合意が得られたことから10月着工、翌年9月に稼働するとの市長報告がありました。

設計変更等もあり、3か月遅れて昭和61年12月1日稼働する施設の管理運営の方針が、9月に入っても決まらない状況でした。10月に、私も所属する小金井市行革推進連絡協議会が民間委託の要望書を提出し、私も民間委託を主張しました。

しかし、施設の管理運営は、正規職員5人、委託3人、臨時職員1人、計9人の直営・委託の混在とし、現業職員は内部生み出しとし、増員はしないことで妥結しました。

昭和61年12月、粗大不燃ごみ中間処理施設が完成し、稼働を開始しました。苦難の長い道程でした。

(つづく)

走り続けた16年(129)

市議会議員として⑩

昭和60年4月に市議会議員になった私は驚きの連続でした。

5月の市長選で圧勝した保立旻市長が安定した与党体制で市政が運営されると確信していたのが、6月に現業職員5名採用を決めたことから一転与党体制に不協和音が生ずることになりました。

また、その数か月前の2月13日、小金井市議会で「二枚橋焼却場の建て替えと同時に他の場所での第2工場の建設計画を同時並行で進めるべき」との趣旨の決議が小金井市議会全会一致で可決されました。これは、小金井市にとっては違和感のないものでしたが、調布、府中の両市には到底受け入れられる内容でなく、保立市長はその狭間で苦悩することになりました。

人口増の中、大量生産、大量消費の社会風潮もあり、全国的にごみ量が増えることから、各地で「ごみ戦争」と呼ばれる紛争が勃発するようになりました。それは、迷惑施設と目される焼却場や最終処分場の必要性は誰もが認めるところですが、自分の近くでないことを望むのも無理からぬ話ではありました。そのような状況から、焼却場等は自区内処理が原則となる風潮が広がりました。

二枚橋焼却場は3市の市域に跨がるという微妙な立地にあり、約1ヘクタールの土地に150トンの炉が4機設置され、環境問題からも地元還元施設などを考えても非常に狭隘でした。また、二枚橋は調布飛行場の飛行区域に当たることから煙突の高さは60メートル以内に制限されており、北側の小金井市域には「はけ」と呼ばれる段丘の宅地開発が進んだことから他の2市との焼却場への考えは異なるものでした。

この二枚橋焼却場の「近代化(建て替え)計画」は先の小金井市議会の決議により完全に暗礁に乗り上げました。小金井市としては当然と思える決議でも、調布、府中の両市への思いが至らなかったのです。建て替えに当たって、それが環境に及ぼす影響を事前に予測と評価を行い必要な措置を講ずるための環境影響調査(環境アクセス)の予算も小金井市の同意がなく執行不能になりました。

結果的に、この決議で二枚橋の3市による新焼却場施設の建設は不可能となりました。同様の課題を持つ多摩各市や一部組合は、小金井市の対応に対して厳しい評価でした。

個人的にも親しかった調布の吉尾勝征市長は、二枚橋組合から脱退し、三鷹市との協同処理の方向に切り替えたときの言葉は「稲葉さん、調布は脱会するのではなく、小金井市から追い出されたんだよ」という認識で、三鷹市との共同処理に向かいました。

私が市長に就任し、8年後の平成19年3月には施設の老朽化で煙突や建屋の崩落の危険が増したことから焼却を終了しました。

そこで、多摩各市や一部組合に、小金井市の可燃ごみ処理の支援要請をする際、決まって聞かれたのは、昭和60年の『二枚橋の決議』の私の対応でした。

当時私は一市民で、その2か月後に市議になったことを伝え、そこから交渉が始まるのでした。もし私がこの決議に参加してたら小金井市のごみがどうなっていたかと思うとぞっとします。その時、議員だったら賛成票を投じていたと思うのです。

(つづく)

走り続けた16年(128)

市議会議員として⑨

昭和60年5月の市長選挙で相手候補の倍近い得票で圧勝した保立旻市長の2期目はスタートから非常に厳しいものになりました。

2期目スタートして間もなく、現業職員5人を採用することにより絶対多数の与党体制は1か月も経ないうちに亀裂が入りました。それは、保立市長を支える与党議員の選挙公約に反するもので、市長の選挙公約にも反する内容だからです。

さらに、保立市長が苦しんだのは、調布、府中、小金井の3市の可燃ごみを共同処理していた二枚橋焼却場の建て替え問題でした。

これは、3市の市民の排出する可燃ごみは、昭和33年以来3市の市域に跨がった二枚橋の区域で焼却処理をしてきました。

しかし、施設の老朽化による焼却量の低下と、人口増によるごみ量の増加により安定的な処理が困難になり、早急な建て替えが必要とされました。そこで、3市を代表する6人の議員で昭和57年7月以来、建て替えに向けての協議・検討を進めていたのです。

昭和59年3月の小金井市議会の市長報告で「現有敷地内で現有施設を稼働しながら建て替える基本計画が示され、昭和59年度予算に施設近代化に関連する予算が二枚橋組合議会で可決されている」との報告がされました。保立市長は本計画に沿って進めていく考えを示しながら、他の2市とは立場が異なるとし、地域住民との対応を優先して考えたい、と複雑な心境を吐露していました。

そして、昭和59年9月、市議会の全員協議会で保立市長は、「ごみ焼却事業について3市共同による組合運営を堅持する」とし「焼却施設が老朽化し日常のごみ処理にも支障が生じてくるので、現有敷地内で現有施設を稼働しながら建て替えることを基本計画とする施設近代化計画を進める立場である。従って、小金井市により凍結されている近代化基本計画に関する二枚橋衛生組合予算の凍結解除を認めてほしい」と議会に要請しました。

これに議会側は近代化の具体案が明らかにされていない上、環境影響事前調査の実施に関し地元の同意が得られていないこと等が指摘され、凍結解除に関し議会の理解は得られませんでした。

昭和59年12月の市議会では、二枚橋焼却場については早急に建て替えを進め、公害等を解消する立場で対処したいとの方針が示されたのに対して、住民に迷惑をかけない施設とすること等を二枚橋衛生組合に意見具申していくよう市長に申し入れました。市長は、市議会の要望に対し、「意向を承って今後二枚橋衛生組合に十分意見を申し上げるよう努力していきたい」と答弁しています。

それが、昭和60年当初に行われる市議選や市長選の直前の市議会で、他の場所に第2工場の建設計画を二枚橋焼却場の建て替え計画と同時並行で進めるべきであるとの内容の「二枚橋焼却施設近代化計画に関する決議」が全会一致で議決されたのです。

この決議は、小金井市側から見れば当然の要求のようにも見えますが、調布、府中の2市には逆鱗に触れるような内容であり、多摩地域全市においても小金井市のこの対応は大きな不信感を生むことになりました。

(つづく)