走り続けた16年(133)

市議会議員として⑬

昭和60年5月末、二期目の市長に就任した保立旻市長は苦難の連続であり、その2か月前に市議会議員としてスタートした私には、この異常な事態を把握するのが精一杯で、与党議員としてどの様な形で市長を支えていくかについては思いもつきませんでした。

革新市政で始まった昭和50年代の小金井市は、常に人件費比率は全国ワースト1位を記録するなど、最悪の財政状況が続いていました。その議員、市長の選挙前の昭和59年度の決算でも、一般会計に占める人件費比率は41・2%と全国650余市の中でワーストでした。(因みに、私が市長を退く平成27年度は15・3%まで下りました)

そのため、市長も与党の市議会議員も選挙公約は財政再建のための行財政改革だったのです。市議会議員になったばかりの私に、保立市長から「団体交渉の際には、連絡の取れる所にいてほしい」と言われ、私は議会の控室で待機し、見守っていました。昭和60年第2回定例会が6月12日に開会しました。私にとって最初の定例会です。その日の議会が終了し、労使交渉が再開されました。日付が変わった13日の午前3時過ぎ、保立市長が結果を報告に来ました。暴力的な労使交渉の経過を見てきた私は、現業職5人の採用に反論することはできませんでした。しかし、当時の状況から現業職の採用は有り得ないことで、与党議員を納得させることはできないと考えました。二人の間に沈黙が続きました。市長は、同行した部長から選挙管理委員会のK・M事務局長の電話番号を聞き、私の目の前で直接電話しました。内容は「自分が辞めたら繰上げ当選になるか」ということでした。二期目の当選を果たし、5月30日に新たな任期に入った保立市長、その2週間後の6月13日には辞職を考えるということでした。これは市長が選挙公約を果たせないことと、それが議員の選挙公約にも影響を与えることを考えてのことで、選挙公約の重みをまざまざと示すものでした。

私は、徹夜の労使交渉でも常に経過を議会の控室で見守っていました。当然、正式な団体交渉や事務折衝には関知しませんが、目に余る抗議行動には口も出すし、割って入ることもありました。労働組合は労使交渉に対する不当な干渉だと当初は激怒しましたが、その内、組合も諦めました。私の行動は、労働組合にも当局に対しても、不当な妥結は許さないとするもので、双方に邪魔な存在だったと思います。給与、人員問題の団交には常に交渉が終るまで、議会の控室で成り行きを見守っていました。私はこれを市長になるまで14年間続けました。

「今、市政で何が」

西岡真一郎市長の任期最後の定例会が11月28日に終了予定です。この議会では延び延びになっていた平成30年度一般会計決算が再度審査され、11月11日の決算委員会で採決が行われ不認定になりました。最終日の本会議では賛成4、反対16、退席1で決着するものと思われます。

決算審査は、当該年度に執行された予算が適正かつ効果的で計数が正確であったかを審査するもので、不認定になれば昨年に続くもので、市政は、極めて異常な状況にあると言わざるを得ません。

(つづく)