走り続けた16年(134)

市議会議員として⑭

昭和60年5月30日、保立旻市長の2期目の任期が多くの難題を抱える中でスタートしました。そのひとつがごみ問題でした。

それは、粗大不燃ごみの破砕処理施設の建設と老朽化した可燃ごみ処理の二枚橋焼却場の建て替えです。

人口増が進み、ごみ量が急増する中でごみ処理への対応が遅れていました。ごみ処理施設の必要性は誰もが認めるところですが、建設場所の選定は簡単ではありません。

当時、粗大不燃ごみはロードローラー等で潰したものを選別して西多摩郡羽村町(現・羽村市)の砂利を採取した砂利穴に投棄していました。管理型の最終処分場でないことから、当然トラブルも発生していました。

昭和59年4月、西多摩郡日の出町に町のご理解により大規模な管理型の不燃ごみの最終処理場が建設され、多摩25市1町の住民の排出する不燃ごみと焼却灰が埋め立て処分されることになりました。

しかし、日の出町の最終処分場に不燃ごみを搬入するには15センチ以下に破砕するなど厳しい基準が定められましたが、小金井市がこの基準をクリアーするのは困難でした。それは、日の出町に搬入する多摩25市1町の自治体で唯一、粗大不燃ごみの破砕処理工場を持たないため、処分する不燃ごみは手選別され、日の出町に搬送されるのは市民が排出する20%程度で、その他は、民間等で別途処理される状況でした。

保立市長の1期目の任期残り僅かな昭和60年5月7日、貫井北町の住民の理解が得られたことで、10月工事に着工し、昭和61年9月の完成に向けて動き出しました。結果的には計画変更があり12月の稼動となりました。

保立市長1期目から続いていたこの問題も土地取得から10年を経てやっと解決することになりました。

これにより、市民が排出する粗大不燃ごみは破砕され、全量が日の出最終処分場へ搬入され安定的に処分されることになりました。それは、現在も続けられています。

昭和61年12月に稼働したこの中間処理施設の管理運営も問題でした。市は、職場検討会で検討中であることから9月に入っても決められないのです。私はこの施設の民間委託を主張しましたが叶いませんでした。結果は、正規職員5人、委託3人、臨時職員1人となり、強力な労働組合にも議会にも配慮した対応になりました。

困難を乗り越えての稼動でしたが、搬送の効率性を考えてプラスチックの減容装置の導入は、熱を加えるため悪臭が発生し近隣住民に迷惑をかけることになりました。また、不燃ごみに紛れたガスボンベの爆発事故や、アルミの化学反応なのか原因不明の火災により一晩中燃え続けたこともありました。これらも、近隣住民のご理解により継続して運営してきましたが、稼動も30数年となり建て替えの時期も迫ってます。蛇の目跡地への庁舎建設もあり、リサイクル事業所等も含めた清掃関連施設整備計画を早めに示して市民の理解を得ていく必要があると考えます。

小金井市の大きな問題は、組合が強力だったため労働条件の変更だけでなく管理運営までも組合の合意を得るという悪習が行政執行の妨げになりました。

(つづく)