大久保市政【施設管理②】
昭和46年4月、市民の選択により革新市政が誕生しました。しかし、これが小金井市政を混乱に陥れ、市民の見えないところで30数年に渡り泥沼状態が続きました。その元凶が、建設部維持補修係と学校を含む施設警備の施設管理係であり、諸悪の根源であったと言っても過言ではありません。一部職員による問題行動は無法がまかり通る様相で、報復を恐れて正せない当局にも責任がありました。また、議会も職員定数を次々に増やす条例改正をした責任は免れ得ません。これによって失われた損失は計り知れず、取り戻せない程大きなものでした。
昭和60年からの私の14年間の議員活動は、行財政改革を進める立場で、志を同じくする先輩議員の言動を見習いながら、反行革の労働組合や一部職員との闘いの連続でした。
振り返ると学校警備は驚きの連続でした。小・中学校の警備や用務は昭和30年当時は住込みの小使さんがそれを果たしていました。その後、教職員が交代で宿日直をするようになりましたが、昭和37年頃から日教組の教職員による宿日直拒否の運動により、市内の小・中学校は個人委託方式の形の臨時職員による警備となりました。
その後、警備員の退職などにより警備会社に委託するようになりました。しかし、その警備会社が、警備員の待遇改善に応じられないことから、矛先は市の方に向くことになり、再び、市の個人委託に切り替わりました。
この状況下に誕生したのが革新市政です。
正職員化を主張する警備員との交渉が重ねられましたが、国家試験の受験生や学生運動等を経てきた警備員らとの交渉に革新市政は力不足でした。昭和48年7月から8月にかけての30日間連続の全員交渉に屈して、1施設3名の準職員配置の警備と、30施設90人全員の正職化も約束したのです。選ばれた革新市政とはいえ、あまりに無責任な市民無視の労使合意でした。
1施設3名配置というのは1日働いて2日の休みで、勤務日は午後4時に出勤し午前8時30分までが拘束で、午前零時から6時までは仮眠時間なのです。
昭和49年12月議会で永利市長は「5月27日午前9時頃、東庁舎入り口で、市の警備員多数が私を取り囲み、ネクタイや胸ぐらをつかみ、足蹴りで左足に打撲を受け、全治3週間の診断を受けたのは事実です」と発言、さらに「労使慣行の正常化と、本人の生活権と将来を考えて(法的)手続きはしない」とのことです。
市長を大勢の職員が取り囲み、自分たちの主張が通らないことから、胸ぐらをつかみ蹴って怪我をさせる。この傷害事件に対し加害者の将来を考えて法的手続きはとらないとのこと。市役所での常軌を逸する行為で私には全く理解できない。これが、小金井市を悪くしていったのです。
府中市の吉野和男元市長が「助役時、府中市の警備員の正職化運動の混乱が急に静まったことをいぶかしく思っていた。それが、小金井市長を訪ねた際、市長室前に座り込む職員の中に府中市の多くの警備員を見て『助かった』と思ったよ」と言っていました。個人委託から両市の警備を兼務してた人達が弱腰の小金井市を選択したことのようでした。
(つづく)