走り続けた16年(162)

大久保市政【施設管理③】

社会党、共産党の支援を受ける永利友喜氏が昭和46年三代目市長に就任し「市の人件費増は市民の要求に基づく事業経費の増加であり、事業を進めていく上に必要不可欠なものということができると思います」と施政方針等でも発言し、これが革新市政の基本的な考え方であり、人件費を削減し、それを市民サービス向上の財源にする、という私の考えとは真っ向から対立するものでした。

昭和48年9月には、ごみやし尿を収集する多摩清掃公社を直営化し、100人の正規職員の増員もありました。

その数か月前の4月には、学校など30の市施設に各々3人配置の90人の準職員を配置することで労使が合意しました。準職員とは正規職員とほぼ変わらない条件で、職員定数条例の枠外とするもので脱法的対応と言わざるを得ません。さらに、準職員の近い将来の正職化も約したのです。この定数外の準職員については当時の自治省や都の指導も無視して実施されたのです。

当時のマスコミには「一月10日、泊まりに行くだけで給与が貰える」とか「(年収)775万円の警備員」と厳しく批判されました。

昭和49年第一回定例会に警備員の正規職員化の条例改正案の提案を見送ったことに猛反発、連日の労使交渉が始まりました。そのため、議会の開会を知らせる振鈴が鳴っても、市長は市長室に閉じ込められ、警備員を中心にした職員が団体交渉の不満をぶちまけるのであり、それは、議会の開会時間を無視しても続けるのです。

また、出勤する市長を取り囲んだ職員が「お前、誰のお陰で市長になれたと思ってんだ」と罵声を浴びせたり、胸ぐらを掴み足蹴りにし怪我をさせるなど、市民には到底考えられない、組織の体をなしていない事態が起こっていたのです。

警備員等職員は「即時無条件正規職員化と合理化反対」の要求を掲げ、市長室前に座り込む闘争に入りました。この座り込みは昭和49年4月から2年2か月連続680日にも及ぶものになりました。

小金井市役所に無法がまかり通った時期でした。それは、度重なる市長の方針変更、政治生命をかけるといいながら議会との約束を反古にし、野党の市長不信は益々つのり、与党である社会党、共産党まで批判的な面が現れ、議会との対立が顕著になったためです。

昭和52年第一回定例会の前に労使の合意が果たされ、警備員を正規職員として定数化する「職員定数条例の一部改正」が市長から議会に提案されました。

審査を付託された総務委員会は賛成2、反対3で否決されたことで、本会議でも否決と見られたが5名の議員が退席し、採決は9対9の可否同数となり与党・社会党議長の採決で可決されました。

この条例改正により一挙に職員定数が95名増の1千136名となり、準職員の警備員は正規化されました。そのため、当該年度の人件費比率はワースト日本一の44・4%となり、その後も全国ワーストの40%台が長く続き、人件費が小金井市財政のガンとなり、長い間、市政を蝕み苦しんでいくことになるのです。

因みに、私の任期最後となる平成27年度の職員数は661名であり、人件費比率は15・33%でした。

(つづく)