大久保市政【施設管理④】
昭和33年10月に市制施行した小金井市は、職員の採用をこれまで選考で採っていたものを、公募による採用を始めました。
昭和36年、職員組合がその公募で採用された平均年齢24・5歳平均勤続年数わずか3年弱の若手職員により組合が再建され、組合委員長にM氏が就任し、これまでの御用組合が一変しました。
M氏は免職期間の一時期を除いて、昭和59年に退任するまで4半世紀にわたり一貫して委員長の地位にありました。その間、暴力的な労使交渉に対する当局の弱腰対応、また、8年間の革新市政により、全国的にも例のない賃金、労働条件にしたことから、カリスマ的支配が形成され「影の市長」「天皇」と呼ばれ、特に現業職場には有利な労働条件の変更により信奉者が多く生まれました。その結果が人件費比率全国ワースト1位を繰り返すことになったのです。
昭和52年第一回定例会で、市職員定数条例が95名増の1千136名に改正されたことにより準職員とされていた90名の警備員の内、70歳台の高齢者等を除いた72人が正規職員として採用されました。
革新市政下の労使間では、永年の懸案であったごみやし尿収集の多摩清掃公社100名の直営化や警備員の正規職員化で、やっと課題解決との考え方もあったようです。しかし、それが小金井市苦難の始まりだったのです。
この様な状況を憂えて、市民団体である中山谷青壮年会が市政の現状を、その機関紙で財政状況、行革の必要性を広く市民に訴えました。また同じ市民団体の菊栄会も市政の健全化に向け、種々の抵抗にもめげず積極的な活動を展開しました。
昭和54年4月の市長選挙で星野平寿氏が当選し、2期8年間続いた革新市政にピリオドが打たれました。
星野、保立旻市長と続く保守・中道市政では、当面する財政問題特に人件費問題が再重要政策となり、職員削減のため欠員不補充を打ち出しました。
昭和58年6月からの市施設管理の新制度で10施設は無人化し、14校の学校警備は1校2・5名の35名体制となり、施設管理室13名と72名体制が48名体制となり、余剰人員は他の現業職場への欠員補充となりました。
保立市長が辞任し、市長がいない昭和62年3月、市長職務代理者が「欠員5名のうち1名を補充して見直しの協議に入りたい」と組合に提案していたが、4月に当選した大久保慎七市長は「見直しの協議の結果必要なら入れるが…」とこれを撤回しました。そのため、学校警備職員は約束が違うと、8月からの時間外勤務を全面的に拒否してきた。そのため学校の宿日直は畑違いの市長部局の部課長管理職60人が交替で務めることになり、混乱はさらに長引いていくことになります。
因みに、警備員は5日の内2日の勤務で、午後4時に出勤し午前8時30分までが拘束時間で、午前零時から6時まで仮眠時間です。昭和61年度の学校警備の人件費は2億1千万円で、最高給者は987万円であり、1人1日の実勤務における給与は4万2千835円の経費がかかっていると報告されました。
これは、市民の市政というより、職員のための市政が長い間続いていた証左なのです。
(つづく)