走り続けた16年(178)

「或る障がい者の死」③

昭和59年、身体、知的に重度の障がいのある山ヵ絵里さんが26歳の時、両親と3人で前原町に転入しました。他の自治体での障害者施設の運営に懐疑的だった山ヵ家は、絵里さんの介護は自宅での母の手厚い介護でした。

しかし、平成7年、その母が亡くなったことから、小金井市障害者福祉センターに父恭一さんの押す車椅子での通所となり、10年間多くの友だちや職員にも恵まれ、充実した日々を送りましたが、絵里さんの体力も衰え四つ這いでの室内の移動も困難になり、さらに恭一さんの病気も重なり、止むを得ず平成16年絵里さんは八王子市館町の八王子療護園への入所となりました。

平成24年11月25日、父恭一さんが死去し、その遺書には全財産を「小金井市の障害者福祉事業に寄付する」とありました。これは、障害者センターでの絵里さんの生活が、いかに充実していたかを証明するものでした。

恭一さんの遺産の1億円超は、遺書にある小金井市と相続人である絵里さんの遺留分とで折半となりました。

絵里さんは、平成22年に卵巣がん、24年肺に転移し手術。2年後の26年には肺がんが再発したが、体力的なことから外科的な治療はしないとしました。その後も、日常的な変化はなく元気であり、食欲の減退等もみられませんでした。

私は、恭一さんの「将来的に生活が維持継続できるように」の遺言が常に頭をよぎるのでした。

平成25年、私は市の担当職員と八王子療護園を訪問しました。療護園の絵里さんは、支援員の支えもあり、寝たきりでしたが、恵まれた環境の中で元気に過ごしていました。

その後、恭一さんの遺骨を絵里さんのお母さんの眠る多磨霊園みたま堂に、絵里さんと親しい人たちで納骨をしました。その時、私が予てより計画していた絵里さんとセンター所長の吉岡博之さんの10年ぶりの再会を果たすことができました。絵里さんは満面の笑みで声を出して喜んでいました。それは、文字や言葉では表せるものでなく、私も、涙が出る程の嬉しさでした。

これを契機に吉岡さんと私は療護園にイベントに合わせて訪問することになりました。

絵里さんは、遠足と称しての外出にあたっては小金井市を希望して、多磨霊園での両親の墓参の後、絵里さんの好きな寿司を皆で食べ、その後、通所していた障害者福祉センターの訪問がコースで、友だちや職員との再会には大喜びでした。

市長を退任して約1年後の平成28年秋の叙勲で私が叙勲の栄に浴し、知人の皆さんが発起人となって祝賀会の準備が進められていました。絵里さんに出欠を尋ねると、出席したいとのことで、施設側もこの様な機会は無いので、車や人員は確保するので是非出席させてあげてほしいとのことでした。本人は大喜びで何を着ていくか気を揉んでると聞きました。平成29年4月、立川パレスホテルでの祝賀会には笑顔で出席してもらいました。

また、同時期に絵里さんの思考力に変化が生じていることを知らされました。絵里さんには財産を相続する人がいないため、もしもの時には財産は全て国庫に帰属することになります。国の帰属となることに対しては、絵里さんの周辺の誰もがそれを望みませんでした。そのためには、公正証書等の作成作業を早急に進める必要が生じたのです。

(つづく)