走り続けた16年(200)

街づくりへの挑戦 中央線高架⑥

平成に入り、小金井市民の悲願であり、多摩都民の念願でもある中央線三鷹〜立川間の高架化に明るさが見えそれが次第に確かなものになってきました。

平成5年度の国の予算に西区間の立川〜国分寺間の調査費4千万円が計上されました。2千億円超といわれる本事業に4千万円は僅かではありますが、これにより、この事業は国が担保して今後進められるという大きな意味を持つものでした。

翌年の平成6年5月中央線三鷹〜立川間の在来線の高架化、そして、新線の地下化が都市計画決定されました。これにより、残る課題は小金井市の街づくりの進捗でした。中央線の高架化と街づくりは「不即不離の関係」にあるとされ、大久保慎七市長の選択は東小金井駅北口の開発は区画整理としました。

昭和39年、東小金井駅の開設に伴い、駅周辺の街づくりは幾度と無く区画整理でとの方針が示されましたが、出されては消えての繰り返しが続きました。

区画整理とは、区域内の道路や公園、駅前広場等を整備するために必要な土地を区域内の所有者からの提供によって行うもので、これを「減歩」といいます。区画整理によって減歩されることに小規模宅地や住居として活用してる住民には、減歩によって土地を削られることにはなかなか納得できるものではありません。一方、農家などの地主には多少の減歩は生活に支障がなく、地価の上昇も見込めるだけに区画整理による街づくりには協力的でした。この相反する考えが地域住民に対立の構造を生み、それが議会にも波及し調整は難航を極めました。

平成6年4月7日、9日と2回に分けて地権者に対して区画整理の説明会が開催されました。しかし、両日とも議事が大混乱となり途中で打ち切らざるを得なくなりました。

この説明会は事業区域内の対象地権者150余名を西と東区域ふたつに分けて婦人会館で午後7時から行われました。地権者のみに限っての参加でしたが、受付で職員の制止を押し退けて地権者以外の人の乱入となり、会場内は「区画整理絶対反対」などと書いたプラカード等が持ち込まれ、説明会は開会前から異様な雰囲気となってしまいました。

大久保市長の挨拶は「区画整理絶対反対!」などの怒号と罵声で聞き取れず、多数の反対者が市長の前に詰め寄る状況となり、収拾が付かなくなったことから、止むを得ず市長は説明会の打ち切りを宣言、説明会は約30分で中止となりました。

私は、両日とも最初から最後まで一部始終を開かれたドアの外から見てて、反対運動に外部からの支援が入ったと思われるとともに、中央線高架に絡む本事業の遂行の困難さを実感しました。

残された三鷹〜国分寺間の連続立体交差の事業採択には、どうしても東小金井駅北口の区画整理事業の推進が必要です。議会の意向を受けての地権者への説明が不毛に終えたことから、庁内に市長を本部長とする推進本部を設置し、市の幹部職員が個別に権利者宅を訪問し、事業への理解を説明しましたが、減歩、換地、清算金などの非常に重要な課題が不確実な中での説明は地権者に不信感を招くだけで理解を得るには程遠いものでした。

(つづく)