走り続けた16年(261)

市長が市民を訴える

大混乱の中で星野平寿市長が任期半ばで辞職しました。財政再建が課題の小金井市で高らかに行財政改革を訴えて当選したが、不適正な北海道出張が原因で辞職となった。

それに伴う市長選挙は昭和56年5月31日に執行され無所属の3氏が立候補し、自民、公明、民社、新自由クが推す保立旻氏が1万5千218票、社民党推薦の田中二三男氏が9千700票、共産党推薦の林茂夫氏が8千319票で保立氏が当選した。不祥事の後の市長選挙だが革新の分裂と財政再建を望む市民の声が保立氏を当選に導いた。

保立氏は大正5年8月、高尾山薬王院の住職を父として生まれ、1m80㎝を超える長身で法政大学では自動車部で車を乗り回し、カメラを趣味とする恵まれた環境の方だった。

昭和26年4月の小金井町議選に34歳で立候補し1票差で落選したが、次の30年の町議選ではトップ当選を果し、町議1期、市議3期の間に議長を5期務め、都・市議会議長会会長にも就いた。市議を引退した後は教育委員等を務めていた。

6月2日保立市長の初登庁を待っていたのは、市長が市民を訴えることの決断でした。これは、武蔵小金井駅南口の2千平米の土地を駐輪場として借りる予定で整地するなど準備していたが、土地所有者のH氏は親戚にあたる星野平寿市長に貸したもので星野市長が辞職したので現状に回復して20日以内に返すように、との申し入れを受けていた。駅周辺には放置自転車が散乱している状況で、正式な土地賃貸借の契約はなかったが、この申し出では受け入れられなかったのです。

市はやむを得ず権利保全のため仮処分申請をし受理されたが、H氏から仮処分決定に異議の申し立てがあり、裁判所の指導もあり本裁判に持ち込まざるを得なくなっていたもので、市が市民から借りた駐輪場用地を返さないことを訴える裁判です。就任早々の保立市長には厳しい判断でした。市が提訴するには議会の議決が必要であり、昭和56年6月の市議会定例会に「土地賃借権確認請求に関する民事訴訟の提起について」が提案され、長時間にわたる熟議の結果単独会派の3議員を除く全議員の賛成で可決された。もし、私が市長でも同じ行動をとったと思います。

この裁判が4年間続く間に別の場所が確保されました。59年11月裁判所の斡旋で市が用地を返し和解金を支払うことで決着した。

しかし、その後も地権者H氏と市が和解することは一切無く没交渉となりました。

60年4月私が市議会議員になって最初に開かれた与党会議で保立市長からこの和解金の支払いが済んだとの報告がありました。

14年後の平成11年4月市長になった私はH氏との不信感を解くことに腐心しました。それは、中央線の高架化や南口の再開発はH氏の協力がなければ進まないからです。就任数か月後、近隣市にある大学病院の特別室で筆談での面会が許され、私は街づくりの協力をお願いしたが、中央線の高架化は進めるべきとの考えでしたが、再開発には返答がなく終わりました。

しかし、その後、H氏の親しい方から再開発を進めることには反対しないとの伝言をいただきました。その数か月後の11月、H氏は逝去され私の面会は1度だけになりました。

(つづく)