走り続けた16年(87)

私の戦争体験 満州からの引揚げ②

私は、父が南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員だったことから、終戦前年の昭和19年11月満州で生れました。昭和20年の4月、父がソビエトとの国境の街、牡丹紅省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就いたことから、この街に移りました。

昭和20年8月9日、父と離別しての母との逃避行、そして終戦、その後、約1年の奉天(現・瀋陽)での難民生活、そして21年7月葫蘆島(コロトウ)からの引揚げなど、当時の満州のことを知るため、市長を退任して時間的余裕が出来たことから厚生省や関係機関、自治体等が発行した引揚げに関する出版物を取り寄せ、また、この8月を前に、母の手記である『追憶(その2)』に目を通しました。母の手記はかなり前に書かれたもので、母が妻に贈ったものです。私も読むよう勧められていましたが、意味もなく母が亡くなってから読むつもりでした。しかし、ここで読みました。それは、原稿用紙に手書きで328ページに及ぶもので、その目次の中の「ソビエトの参戦」という項目の一部を原文のまま抜き出してみます。

「昭和20年8月8日、彼はいつもの様に夕食をすませ、常会があると言う事で出かけられた。そして10時頃帰られ休んだ。其の時の集会の内容は何であったかは忘れてしまったが、いずれにしても緊迫した事態であることの会合に違いなかった。寝て1時間位経ったと思う時間、ズシンという物凄い大きな音に、私は驚いて目が覚めた。彼も同じであった。音は時をおいて又あった。私は驚きで腰が立たなくなってしまった。彼はアメリカ軍の空襲かもしれないと言った。二人共暫く沈黙のままであった。その音は又しても続いた。とにかく家を出る用意をしておく様にと言い残して会社に行かれてしまった。私は立たない足を引きずりながら、ローソクの光が外に漏れないように囲い御飯を炊き、おむつの洗濯をしたり、子供に着物を着替えさせたりして居った。

『奥さんどうする』お隣りの奥さんは泣きながら入ってこられた。その声も追い詰められた瞬間のものであった。相変わらず音は時をおいて続いた。はっきり爆弾であることが分かった。私は子供があるので泣いてなど居られなかった。『奥さん逃げる用意をしなさい』私は言った。お隣りの奥さんは防空壕に入ろうと言う。『そんな悠長な事はしていられないわよ』私は言う。兎に角に家が壊れてしまいそうな音が又する。お隣りの奥さんと三人私は孝彦を抱いて厚いドアとドアの間に立ちすくんだ。

夜明けの3時頃、彼は爆撃の間をぬって会社より帰られた。この時の彼の顔の色は蒼白であった。この爆撃はソビエトの参戦である事を彼に知らされた。『もう一時も早く逃げることだ』と彼は言った。夜の明けるのを待って満鉄社員の家族を乗せて列車を出すことになった。もう日本より持ってきた嫁入り衣装は何も入らなかった。おむつ、木綿の下着、着替え2〜3着、野宿の時の用意に毛布1枚、少々の食料、医薬品、ちり紙類、預金通帳、印鑑、手持ちの現金は全部持たせてくれた。彼が独身時代に使ったという飯盒、母の形見で作った絽のワンピース1枚、地下足袋も新しいのを履いていきなさいと言ってくれた。簡単な食器類も用意した。」

(つづく)