走り続けた16年(88)

私の戦争体験 満州からの引揚げ③

私は、南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員を父に終戦の前年、昭和19年11月に満州で生れ、翌20年の4月、父がソビエトとの国境の牡丹江省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就いたことから、この街に移り住みました。

昭和20年8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄して国境を越えてソ連軍は私たちの住むスイフンガ市に侵攻しました。

父は砲弾の音の響く真夜中、母に逃げる準備をするようにと伝え出社した。いったん午前3時頃に帰宅し、夜が明けたら満鉄社員の家族が逃げる列車を出すので、母と私はそれに乗って逃げることを告げられた。父は会社のため死を覚悟して残ることを決めたのです。その時、父は28歳、母は24歳、私は8か月であった。

前号に続き、母の手記である『追憶(その2)』の「ソビエトの参戦」の項の一部を原文のまま続けます。

「思いも掛けぬ突然のソビエトの参戦によって戸惑った。ソビエトとは不可侵条約が結ばれて居ったという事で油断があった。

彼は背中にリュックを背負い、リュックの上に毛布を巻いて載せ用意した洗濯用のバケツの中に食器類を入れたもの1ケ、当座の食料の包み1ケ、皆私が一人で持てる範囲のものであった。私は孝彦を背負った。そして、地下足袋を履き防空頭巾を被った。もう二人は話す言葉がなかった。暫くして彼は言った『孝彦は生まれてこなければ良かったね。それでも父親より母親と一緒の方がいいだろう。誰に聞かれても見られても見苦しい死にかただけはしない様にしてくれ、そして逃げられる所まで逃げなさいよ』。ただそれだけであった。私は『死ぬなら一緒でいいでしょう、一緒に行動しましょう』と言ったが彼は許さなかった。

三人で我が家を出ようとしたとき、日の丸の飛行機が何機か低空を飛んでいるのを見た。それは戦うためのものではなく、私達と同じ様に将校の家族が避難するため飛び立ちであった。時をおいて落ちる爆弾の中を潜りながら駅に着いた。

列車の回りは泣くもの嘆くもの、何人もの泣く子を引っ張る母親、障害のある大きな娘さんを背負う母親、それはそれは惨めな日本人の姿であった。彼も私も別々の気持ちで死を覚悟した。彼には果たさなければならない使命があった。

彼は抱いていた孝彦を私に渡し『二人とも日本には帰れないだろうが、最後まで諦めないように。あなたは孝彦より先に死ぬことのないように』それが最後の言葉になった。

私は抱いている孝彦を彼の方に向け『またお会いできますよね』と言うと、彼は黙ってうなずいた。

私達は列車に乗った。そして、彼は、この列車の出発を指示するためその場を離れた。列車の窓には爆撃を避けるためガラス窓を締め、カーテンをおろし、その上に腰掛けが立てられていて再び彼を見ることはできなかった。

列車は間もなく何処に行くという宛先もなくスイフンガを去った。

私達を乗せた列車は男の方は機関士の方を含めて3〜4人、後は全部婦女子であった。」

(つづく)