走り続けた16年(89)

私の戦争体験 満州からの引揚げ④

昭和20年8月9日未明、ソビエト軍が国境を越え、私たちの住む満州牡丹江省綏芬河(スイフンガ)に侵攻して来た。平凡で平和な私の布施家(小5に養子で稲葉姓に)は一瞬にして引き裂かれ、暗黒の荒海に放り出されてしまいました。

母は持てるだけの必要な荷物を準備し、父の勤める満鉄の避難列車で母と私だけが逃げることになりました。

父も母も死を覚悟していた。スイフンガ駅の列車の前で父は抱いていた私を母に渡し、「二人とも日本には帰れないだろうが、あなたは孝彦より先に死ぬことのないように」が父の最後の言葉となった。母は抱いた私を父に向け「またお会いできますよね」と言うと、父は黙ってうなずいた。私たちは列車に乗り、助役を務める父はこの列車の出発を指示するためその場を離れた。そして、行く当てのない列車はスイフンガ駅を離れ、多くの家族が離散することになったのです。

母の手記『追憶(その2)』の「ソビエトの参戦」の項を再度抜き出してみます。

「行く宛てのない列車はスピードもそう早くはなかった。駅々に止まることもなく中央に向かって進むのであろう。(中略)

列車はイイメンパーという駅に止まった。この駅名を漢字でどう書いたかは忘れてしまった。ひと先ず安全な場所と言う処で皆下車する様命令が出た。御飯を炊く人、洗濯する人、皆それぞれ忙しかった。

その時、私の前に一人の男の方が来られ『布施さんの奥さんですね?』と言われた。『ハイそうです』私は言った。『御主人は玉砕されたそうです』其の男の方は教えてくれた。私は驚かなかった。やっぱり来るべきときが来たんだ。ああ彼は玉砕したのか。心の中で再び言いかえした。私は爆撃を受けた瞬間から別れる時までのあの慌ただしかった数時間を思い起こさずには居られなかった。

其の男の方は続けて『後藤さんの家族は全員薬を飲んで亡くなられたそうです』と付け加えた。後藤さん家族は私たちがお世話になった家族でした。この様にして良い情報は何もなかった。私は孝彦を暫く無言の儘見詰め強く生きよう。彼の残された最後の言葉を私は再び思いおこす。この子と共に生きて行ける所まで生きる事に努力しなければと自分自身に言い聞かせた。

私達を乗せた列車は再び四日目、五日目と何処へ行くあてもなく走り続けるのだった。」

母は奉天(現・瀋陽)に行くため途中でこの列車を降り、いつ来るか分からない列車を待った。そして、玉音放送のあった翌日の夜中に奉天に着くことができました。

その後、約1年の奉天での難民生活、そして葫蘆島(コロトウ)から引揚船により、船内に伝染病のため2か月かかって下関港か仙崎港に上陸し、日本に辿り着きました。

「私の戦争体験」はこの辺で終わります。また、機会がありましたら母の手記を含めて戦争の悲惨さを伝えていきたいと思います。

現在、母は96歳、私は73歳、ともに元気で天国の父は驚いていることでしょう。

(つづく)

走り続けた16年(88)

私の戦争体験 満州からの引揚げ③

私は、南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員を父に終戦の前年、昭和19年11月に満州で生れ、翌20年の4月、父がソビエトとの国境の牡丹江省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就いたことから、この街に移り住みました。

昭和20年8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄して国境を越えてソ連軍は私たちの住むスイフンガ市に侵攻しました。

父は砲弾の音の響く真夜中、母に逃げる準備をするようにと伝え出社した。いったん午前3時頃に帰宅し、夜が明けたら満鉄社員の家族が逃げる列車を出すので、母と私はそれに乗って逃げることを告げられた。父は会社のため死を覚悟して残ることを決めたのです。その時、父は28歳、母は24歳、私は8か月であった。

前号に続き、母の手記である『追憶(その2)』の「ソビエトの参戦」の項の一部を原文のまま続けます。

「思いも掛けぬ突然のソビエトの参戦によって戸惑った。ソビエトとは不可侵条約が結ばれて居ったという事で油断があった。

彼は背中にリュックを背負い、リュックの上に毛布を巻いて載せ用意した洗濯用のバケツの中に食器類を入れたもの1ケ、当座の食料の包み1ケ、皆私が一人で持てる範囲のものであった。私は孝彦を背負った。そして、地下足袋を履き防空頭巾を被った。もう二人は話す言葉がなかった。暫くして彼は言った『孝彦は生まれてこなければ良かったね。それでも父親より母親と一緒の方がいいだろう。誰に聞かれても見られても見苦しい死にかただけはしない様にしてくれ、そして逃げられる所まで逃げなさいよ』。ただそれだけであった。私は『死ぬなら一緒でいいでしょう、一緒に行動しましょう』と言ったが彼は許さなかった。

三人で我が家を出ようとしたとき、日の丸の飛行機が何機か低空を飛んでいるのを見た。それは戦うためのものではなく、私達と同じ様に将校の家族が避難するため飛び立ちであった。時をおいて落ちる爆弾の中を潜りながら駅に着いた。

列車の回りは泣くもの嘆くもの、何人もの泣く子を引っ張る母親、障害のある大きな娘さんを背負う母親、それはそれは惨めな日本人の姿であった。彼も私も別々の気持ちで死を覚悟した。彼には果たさなければならない使命があった。

彼は抱いていた孝彦を私に渡し『二人とも日本には帰れないだろうが、最後まで諦めないように。あなたは孝彦より先に死ぬことのないように』それが最後の言葉になった。

私は抱いている孝彦を彼の方に向け『またお会いできますよね』と言うと、彼は黙ってうなずいた。

私達は列車に乗った。そして、彼は、この列車の出発を指示するためその場を離れた。列車の窓には爆撃を避けるためガラス窓を締め、カーテンをおろし、その上に腰掛けが立てられていて再び彼を見ることはできなかった。

列車は間もなく何処に行くという宛先もなくスイフンガを去った。

私達を乗せた列車は男の方は機関士の方を含めて3〜4人、後は全部婦女子であった。」

(つづく)

走り続けた16年(87)

私の戦争体験 満州からの引揚げ②

私は、父が南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員だったことから、終戦前年の昭和19年11月満州で生れました。昭和20年の4月、父がソビエトとの国境の街、牡丹紅省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就いたことから、この街に移りました。

昭和20年8月9日、父と離別しての母との逃避行、そして終戦、その後、約1年の奉天(現・瀋陽)での難民生活、そして21年7月葫蘆島(コロトウ)からの引揚げなど、当時の満州のことを知るため、市長を退任して時間的余裕が出来たことから厚生省や関係機関、自治体等が発行した引揚げに関する出版物を取り寄せ、また、この8月を前に、母の手記である『追憶(その2)』に目を通しました。母の手記はかなり前に書かれたもので、母が妻に贈ったものです。私も読むよう勧められていましたが、意味もなく母が亡くなってから読むつもりでした。しかし、ここで読みました。それは、原稿用紙に手書きで328ページに及ぶもので、その目次の中の「ソビエトの参戦」という項目の一部を原文のまま抜き出してみます。

「昭和20年8月8日、彼はいつもの様に夕食をすませ、常会があると言う事で出かけられた。そして10時頃帰られ休んだ。其の時の集会の内容は何であったかは忘れてしまったが、いずれにしても緊迫した事態であることの会合に違いなかった。寝て1時間位経ったと思う時間、ズシンという物凄い大きな音に、私は驚いて目が覚めた。彼も同じであった。音は時をおいて又あった。私は驚きで腰が立たなくなってしまった。彼はアメリカ軍の空襲かもしれないと言った。二人共暫く沈黙のままであった。その音は又しても続いた。とにかく家を出る用意をしておく様にと言い残して会社に行かれてしまった。私は立たない足を引きずりながら、ローソクの光が外に漏れないように囲い御飯を炊き、おむつの洗濯をしたり、子供に着物を着替えさせたりして居った。

『奥さんどうする』お隣りの奥さんは泣きながら入ってこられた。その声も追い詰められた瞬間のものであった。相変わらず音は時をおいて続いた。はっきり爆弾であることが分かった。私は子供があるので泣いてなど居られなかった。『奥さん逃げる用意をしなさい』私は言った。お隣りの奥さんは防空壕に入ろうと言う。『そんな悠長な事はしていられないわよ』私は言う。兎に角に家が壊れてしまいそうな音が又する。お隣りの奥さんと三人私は孝彦を抱いて厚いドアとドアの間に立ちすくんだ。

夜明けの3時頃、彼は爆撃の間をぬって会社より帰られた。この時の彼の顔の色は蒼白であった。この爆撃はソビエトの参戦である事を彼に知らされた。『もう一時も早く逃げることだ』と彼は言った。夜の明けるのを待って満鉄社員の家族を乗せて列車を出すことになった。もう日本より持ってきた嫁入り衣装は何も入らなかった。おむつ、木綿の下着、着替え2〜3着、野宿の時の用意に毛布1枚、少々の食料、医薬品、ちり紙類、預金通帳、印鑑、手持ちの現金は全部持たせてくれた。彼が独身時代に使ったという飯盒、母の形見で作った絽のワンピース1枚、地下足袋も新しいのを履いていきなさいと言ってくれた。簡単な食器類も用意した。」

(つづく)

走り続けた16年(86)

私の戦争体験 満州からの引揚げ①

7月5日に発生した西日本豪雨は、多くの市町村に想定外の猛威をふるい甚大な被害をもたらしました。また、過去に例をみない全国的な猛暑など、連続する異常気象は世界的傾向で地球全体に大きな影響を与えています。

我々の豊かで快適な生活が自然環境に大きな負荷を与えていることも一因ではないかと思われます。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、一日も早い被災地の復興を願います。

今年も猛暑の8月を迎え、平和の尊さについて考える月でありたいと思います。

73年前の昭和20年8月は、6日広島、そして、9日は長崎に原爆が投下され、15日に終戦となり、日本が建国以来の激動の時でありました。その8月を今年も迎えました。

先の大戦の終結から73年が経過し、今、戦後生まれの人口が総人口の80%以上を占めるようになり、戦争体験のある人が減り、戦争の悲惨さが過去のものとなり次第に風化されてしまうことに危惧を感じています。

日本が敗戦の廃墟の中から立上がり、この平和と繁栄を築き物質的豊かさが享受できたのは、日本人の勤勉さや人間性、また、日本を取り巻く国際環境に恵まれたことと、先の大戦で犠牲になった英霊が礎にあることも忘れてはなりません。

私自身の平和について考える時、昭和20年8月9日のソ連の参戦が原点になります。当時、生後9か月の私と家族の戦争体験に触れてみたいと思います。

私は、昭和19年11月、父親が南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員だったことから、満州牡丹江省(現・黒竜江省)の穆稜(ムーリン)で、布施孝彦として生まれました。

父は、伯父(母の兄)の旧制中学の同級生で、卒業後、昭和10年銚子市役所に入所し、派遣で来ていた技術系の上司が銚子での任務を終え、満鉄に異動したことに伴い父も後を追って満鉄に転職し、満州に母を呼び寄せることになりました。

その後、父が満鉄の助役の試験に合格したことから、昭和20年4月牡丹江省綏芬河(スイフンガ)駅の助役に就任しました。スイフンガ駅はロシアとの国境の大きなターミナル駅で、父は大きな夢を持ち、やりがいある仕事に精力的に取り組んでいたとのことです。

私は市長に就任して3年目の平成13年8月、ムーリンの自分の生まれた満鉄の社宅と、父と別れたスイフンガ市を訪ねました。

ムーリンは典型的な中国の田舎町でしたが、スイフンガは風光明媚でヨーロッパを連想させる街づくりで、ロシアのリゾート地となっていました。そのスイフンガ市の中心部からロシア(旧ソ連)国境までの距離は約28キロメートルと至近の距離にありました。

日本とソ連との間には昭和16年4月から、昭和21年までの5年間の日ソ中立条約が締結されていました。しかし、ソ連はその条約を一方的に破棄し、有効期限内である昭和20年8月9日未明、対日参戦し、ソ連軍は国境を突破しスイフンガ市に砲撃を開始しました。

このソ連の参戦により、平穏で恵まれた私の家庭は、一瞬にして引き裂かれ、荒海に放り出されました。

(つづく)